「奇跡の学校」を拝読して

投稿日:2014年10月10日

「奇跡の学校」という森教育学園理事長森靖喜氏のご著書をいただき、拝読しました。

「なぜ滑り止め校が進学校に変わったのか」という副題が付き、1960年のご先代による西大寺女子高校設立から岡山学芸館高等学校の現在の大きな成功に至るまでの歴史です。学校の移り変わりに反映される社会の風潮や流れや社会的なできごとに即して、ご自身の理念や価値観を教育の芯として打ち立ててこられた森靖喜氏ご自身の半世紀以上にわたる闘いのエピックストーリーでもあります。

あるべき姿、より良いものへのたゆまぬ探求と、信念を貫き通す揺るぎない闘志に心からの敬意を表します。

ご出版に関する私的な見解やお祝いのメッセージは既に送らせていただいておりますので、ここでは、読後感、そして、当時の思い出をオーストラリアからの視点でお届けしようと思います。

私との出会いを「運命的」、そして、いろいろな方々を通してそこに至った経過を「神様に導かれた」とまで言ってくださっているのはなんとも光栄なことです。当時校長先生でいらした森靖喜氏との1989年の東京駅の丸の内ホテルでの出会いは、私にとりましても、まさに「運命的」なものとなりました。

素晴らしい出会いがたくさん待つ未来への扉が開かれるものとなったからです。

そして、「人間」という複雑極まりない存在の不思議に魅せられ、尽きない好奇心の虜となり、その後の20数年間、その理解を求めて追い続け、本当に充実した毎日を送ることができる人生を与えられたことは、極めて幸運なことでした。「神様のお導き」だったのでしょう。

最初は、交換留学ができる制度を確立し、窓口となって最初の架け橋ができれば、それで役目は終わると理解していました。

それまでは、シドニーにある日豪の両方の生徒が混在する学校に勤務していましたが、私の仕事は、日豪の文化と社会をつなぐ仕事であり、日本から3年交替で見える校長先生の秘書的業務と、やはり3年赴任される先生がたの外国での生活のサポート、子どもたちの教科書の翻訳や先生方及び日豪の保護者の通訳、メディアや豪政府との交渉などが主な業務でした。私が辞職した後、私がしていたことをカバーするために3人が新たに雇用されたので、かなり効率の高い仕事をこなしていたのだと言ってもいいのではないかと思うのですが、そこで使っていた技能は、十代半ばの若者たちと向き合った際にはまったく役に立たないものであることをじきに思い知らさることになりました。

さて、いよいよ始まってみれば、想像していたのとはかけ離れて違ったのです。

英語がわからない、授業についていけない、というのはそれなりに困ることだったのですが、でも、言語に関しては、英語を勉強しに来たのですから、始めからパーフェクトにわかるだろうなどとは誰も期待しません。一生懸命学習に従事する姿勢が示されていればそれでいいのです。でも、実際のところ、6つも7つもの学校に1名、または2名と分散していますので、一旦生徒が学校の中に入ってしまうと外から援護できることは極めて限られてしまうことが徐々にわかってきました。

私が、本当に困ったのは、勉強などさらさらする気がなかったり、学校でもホストファミリーでも、これをしたら必ず問題になることが明白にわかっているのに、敢えて、その問題となることをする生徒たちがいたことです。

えっ、勉強しに来たんではないの? なぜ、だめだとわかっていることを敢えてするの? そんな単純明快な式になぜ従えないのか。。。私にはとても不思議でなりませんでした。

なぜ、学ぼうとしないのか、なぜルールを守れないのか。。。当時の私は、それがどういうことを意味するのかさえも理解できなかったわけです。

ホームステイに関して私が持っていた知識は、自分が学生の頃にした体験、そして、受ける側としては、子どもの頃にわが家にロータリーで来ていた外国からの若者たちのイメージがあり、問題があったというような記憶はまったくなかったので、それが当たり前の状態、とのんきに構えていました。

 頻繁に鳴る電話。(ホストファミリーに)陳謝する私を見て、「ママは、どうしてそんな悲しいお仕事をするようになったの?」と当時小学生だった娘に問われ、これは大変、留学生とのもっと楽しい、そして、すてきな瞬間を見せねばと、会える機会がある時には一緒に連れ出し、日本のすてきな高校生のお姉さんやお兄さんたちとの交友もするようになりました。その友情は、今でも続いています。

時間があれば、本に囲まれ過去の神話や遺跡に想いを巡らせていたら幸せだった私が、突如、これから未来を創っていく十代半ばの子どもたちの夢や、留学生活で起こること、悩みや問題に、等身大でつきあうことになったのです。留学してきた子どもたちにとっては、当時は、他に誰も頼るところがありませんし、受け皿となった学校にとっても、窓口の私が責任者です。

頼りになるのは、自分の留学体験、そして、外国での生活体験のみです。でも、そんなものは、全く通用しないところに私は立っていました。

私の本は、歴史から心理学や子どもの成長に関するものに変わり、猛勉が始まりました。

一方、日本でも、同じような状況が起こっていたのです。

ポイントの交換なので、日本から一人出れば、オーストラリアから一人来ます。当時、日本語はとても人気のある教科であり、日本語を専攻しているのは、大学に行こうとしている勉学好きな生徒たちでした。8月の終わりに義務教育最後の試験が終了すると、翌年の1月末まで本格的にしなければならないことが無く(日本では考えられないことですが、当時は、まだそれほど教育にガリガリしていなかったのでしょうね)、どの学校の校長先生も日本での体験は貴重と、8月末から1月末まで進んで出してくださいました。

実際にこの生徒たちは、日本の留学から戻り、HSCという卒業試験で州でトップクラスとか10番以内とかといった極めて高い点数を得るようになり、各学校は、この新しい交換制度にとても乗り気ところか、大歓迎となり、姉妹校となる学校もどんどん増えました。

でも、半年x2(豪)=1年x1(日本)という計算になるので、日本サイドは、2倍の数を受けるということになります。多くは、送り出す家庭が受け入れをするというのが最初でした。でも、数が足りないので、さらに支援者を必要としました。

日本は、非常に形を大事にする国。オーストラリアはざっくばらん、おおらかさを好む国。日本のホストファミリーは、ありとあらゆることをしてくださり、尽くすだけ尽くしてくださいます。それに十分応えられる生徒もいれば、日本の慣習や礼儀に応えられない生徒もいます。ホストが一生懸命になればなるほどギャップが大きくなることもありました。

オーストラリアの生徒たちが一番戸惑い理解できなかった日本の習慣は、問題があった際に、あるいは、ホストに気に入らないことがあった場合に、直接ではなく間接的に注意されたりアドバイスを受けることでした。いつもとまったく笑顔の変わらない優しいママなのに、問題があると学校の先生から言われ、そこから、どうしていいのかわからなくなってしまうのです。

ホストのお母さんに甘え、てこずらせた生徒が、台風の嵐の夜に庭の松の木が倒れないようにロープで必死に支えたといった感動的な話もある一方で、次から次と起こる問題に、日本サイドも頭を抱えることになります。

私が今でもしつこく「留学の成功は、その80%が準備にあり」と唱えるのは、この最初の頃の経験からです。

送り出す方も、迎えるほうも、すべて手探りの状態から始まったのですが、それ故に、私は、すばらしい方々と巡り会うことになりました。どんな方々との出会いがあるのか、それは次回にまわします。

 

 

 

 

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