菅首相、ご苦労様でした
投稿日:2011年8月29日
私は、政治のことはよくわかりません。
あまりにも複雑で、なぜそうなるのかわからないことばかりだからです。だから、ブログという公の場で、政治に対する考えを述べることは控えるべきなのですが、菅総理が辞任を表明したところで、思うところを少し触れてみたいと思います。
世の中は、価値観も思想もあまりにも多様化し、そのすべての要求を政治や政策に反映させることができないのは、どの国の様子を見ても明らかです。民主主義であろうと独裁政治であろうと王政であろうと、政治形態がどういうものであれ、どこも問題だらけです。内紛がずっと続いているところもあります。国そのものが消滅したものもあります。
さらに、国際的にも、思想や経済的な理由により、世界は分断されています。 リビアのように一見民衆の勝利のように見えるものの、その裏ではNATO(北大西洋条約機構)が超近代的戦闘技術を駆使してガダフィ政権を追い詰めてきたように、ひとつの国の運命もいろいろな国の思惑の中で翻弄されます。独裁者も大国の力も、そのどちらも本質はあまり変わらないのではないか、とついつい思いたくなってしまいます。
その上に、一国の政治は、世界の金融に左右され、企業も社会もその影響を免れません。
どの主義であろうと、どんな政治家であろうと、世界をひとつにまとめることは不可能であり、国をひとつにまとめることも不可能です。
そうした多様性の中で起ってきている特徴のひとつに、「民主主義」を掲げる国々の国会運営がとても難しくなってきている状況があることです。オーストラリアの場合には、与党と野党の違いは、1票の差だけです。日本もねじれ国会、アメリカも、イギリスも然り。
民主主義というのものが数に頼るというのは、良い場合もあり、弊害もあります。外から観る限り、日本の政治は、その数をそろえることに奔走するあまり、そして、数を失うかもしれないという怖れから、強い主張を唱えることが難しく、そして、唱えても理解してもらえないという状態にあるように見えます。
政治家としての理念とか、誇りとか、尊厳というようなものを持つことよりも、数の横暴に迎合することのほうが政治には大事なのか・・・ そうしないと、政治が成りたたないのか・・・ 首相が変われば、これだけ国は変わるのだというでっかいビジョンは見えてこない。
英雄的な政治家を生み出す土壌がなくなってしまった日本社会で、それを期待するほうが土台無理なのかもしれませんが・・・
ここ5年間、日本の首相は、ポンポンと替わっています。選挙の結果なら仕方ないとしても、「もう、辞~めた!」と簡単に降りてしまう。そういう状況の中で、菅氏がやりたいことがある、それができるまでは辞めない、とがんばり続けた姿勢に、私は、エールを送りたいと思うのです。あの批判の嵐の中で、それをすることがどれだけ大変なことだったか・・・・
東日本大震災という未曾有の自然災害に見舞われただけでなく、福島の原発の事故対策、誰が日本の代表であったとしても、国全体を引張ることは難しい状況の中、ねじれ国会、野党の支援は得られず、党内の派閥は復興よりも戦局に関心を向けている。そうした動きにメディアが疑問を呈したのはわずかの間。あとは、菅氏をたたくことに徹していました。すくなくとも、私がこちらで観るニュースでは、目に入るのは批判ばかりでした。
何を言っても、何をしても批判のみ。
菅氏に対するそういう批判が妥当なものなのかどうかは私にはわかりません。でも、大震災の復興という時代も党派も派閥も超えてとりかからなければならない大問題を前にして、首相が誰であり、全員がそこに知力を傾けようという動きは、政治の中には見えませんでした。
退陣を条件として成立した公債発行特例法と再生エネルギー特別措置法。
増税もできず、借金で沈みそうな日本は、公債発行特例法がなければ、復興の資金がありません。これが成立したことで、復興には拍車がかかるのでしょう。
再生エネルギー特別措置法は、原発と同様、既得権が絡むのでしょうが、電力配給に関する既成の構造を変え新しいシステムを導入するものだけに、この種の法案の成立は極めて難しいものだとされる中でそれを成立させたことは、首相の座との引き換えだっただけにまさに政治家として命をかけた取引だったのでしょう。
オーストラリアでは、Carbon Taxという炭素を出す産業に税をかけ、そこからあがる収入でエコ産業を促進しようとする新しい法を導入しようとし、賛成・反対と国を半分に割るほどの激しい勢いでぶつかりあっています。利益を得るものは当然賛成するし、不利益と見る人々は当然反対します。
政治とは、なんと難しいものなのでしょう。
ゴチャゴチャと書いてしまいましたが、何を言いたかったかというと、これからの世の中に生きる若者たちが何を培えばいいのかということです。
16歳という若き年齢で留学し、他の国に飛び出した若者は、もうひとつの国に生きる若者ではありません。世界がこれだけ多様化し、休息に変化する中で、彼らが必要とするものは、大志と、生き抜く力と、自分の信念です。そして、それを人々と共有できるコミュニケーション能力です。
コミュニケーション能力は、言葉とは限りません。アートであり、ミュージックであり、スポーツであり、そこに「美」があり、流れる精神のあるものであればいいのです。他の人々の精神と互いに誠意をもって交流できるものであれば。
そこに厳然と輝くのは、その人の人間としての美なのだろうと思います。その美が、他の人々と共有できるものであり、他の人々が美しいと思えるものであることが大事なのでしょう。
そして、それが、その人がこの複雑な社会で自信を持って生きていけるための尊厳となるものだと思います。
成績のみを重視する今の学校教育の中で、こうしたものを養なうことはとても難しいことです。成績を中心に物を考えるので、それで幕を張られ、人間としての尊厳までに目が届かなくなってしまいます。
留学した若者たちが持つメリットのひとつは、人間の尊厳について考える時間の余裕があることです。留学中に自分なりの美を追い求め、生き方を模索し、大志を抱くようになって欲しいです。