「可能性を広げた留学」

投稿日:2013年11月20日

 明日の早朝、また、一人、日本に、そして、未来に向かって飛び立ちます。

シュウヘイ君が綴った3年間のストーリーをご紹介します。タイトルは、「可能性を広げた留学」です。

 

可能性を広げた留学

この3年間留学が終わるに当たり、今まで自分がオーストラリアで見たことや感じたこと、そして、してきたことを思い返してみると、自分がこんな事をやってのけたんだという驚きと達成感で満ちている。そしてこの留学を影から支えてくれた日本の家族やICETの先生がたには、本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

 

留学を決めた理由&留学までの経緯

自分が海外に留学をするとは高校1年生の6月までは全く考えてなかった。留学を意識し始めたのは、学校で配られた1枚の手紙からだった。そこには、この学校で1年間留学をしたい人を募集しているという内容だった。そのときには、こういう事が出来るのはほんの一握りの頭のいい人たちだろうなと思いあきらめ、その手紙をファイルにしまい家に持って帰った。しかし布団の中に入っても留学と言う2つの文字が離れる事がなく、1晩考え、そして生徒だけの説明会に参加だけでもしてみようと思った。

説明会の日、十数人の生徒が集まっていて自分より賢いコースの人が多かったように思う。説明会で言われた内容は、まず留学する前にスレップテストを受けてそのスコアーで行けるかが決まる。そして、この留学は学校が主催しているものなので、1年留学中も休学しないで留学先で単位が取得でき、留年せずに留学後はみんなと同じように3年生に上がれるという内容だった。私はこの話を聞いて留年せず普通に3年生に上がることができ尚且つ留学と言う、これから生きていく上で強い武器を手に入れることができるという魅力を感じ、そして自分の中では留学に行きたいという意思が固まった。

その日の晩にスレップテストの申し込み用紙と留学案内を母に見せ、そして母に自分が留学に挑戦したいと言うことを話してみた。母は私の話を一通り聞いたところで、私に「やりたいようにやればいいけど、あんた英語できたっけ?」と言った。その言葉で留学というものがものすごく遠ざかったように感じた、なぜなら、自分の中学校の英語の成績は壊滅的に悪く、そして、中学校の英語の先生からは「弓場には英語は無理やから他の教科を勉強しなさい」と言われたほどだった。その成績は高校になっても変わらず、英語のテストの成績はほとんど赤点か赤点ぎりぎりの成績、そして、面談では先生から「英語がね…」と言われ続けていた。やはり留学に行こうというのは無理なんだろうなと思った。しかし母は、「やれるとこまでやってみ」と私に言い、テストの申込用紙にサインをしてくれ、そしてお金を出してくれた。

第一回目のスレップテストを受け、結果が返ってきた。その結果は目も当てられなくて、このままでは留学に行けないと先生に言われた。自分でもこのままではヤバイと思い、勉強しようと思ったものの何をしたらいいのかも分からないし、自分はどこが分かっていてどこが分かっていないのかさえ分からなかったが、何かをやっていないと不安になってしまうので、闇雲に教科書を見直したり問題集を解いたりした。しかし、そんな事をしてもテストの結果もそこまで上がることはなく、留学をあきらめようと思った。そんな時に先生が一つの留学機関を紹介してくれた。

それがICETだった。ICETは、スレップテストの点数ではなく、留学をしたいという強い気持ちを持った人なら誰でも行くことができるという所だった。それを聞いてすぐに私は父と母に相談をし、父にも母にも「行けるなら行って、英語を喋れるようになって帰って来い」と言われ、家族の了解も取れて無事留学に行くことが出来るようになった。

迎えた出国の日。家族と学校の友達数人が空港まで見送りに来てくれて写真撮影などをした後に、私は新しい世界への期待と少しの不安を感じながら飛行機に乗りオーストラリアへと出発した。

 

言語の壁

私たちを乗せた飛行機はゴールドコーストを経由し、お昼ごろにシドニーに到着。出口を抜けてすぐに、ICETの先生や先輩が出迎えてくれた。そこから1時間ほどバスに揺られ、私たちは、これから通うことになるDavidson High Schoolに到着した。そこで日本の大阪、岡山、岩手から集まったこれから一年間共に勉強をする仲間と簡単なオリエンテーションを受け、先生方から色々な諸注意があった後、待ちに待ったホストファミリーとの対面式の時間になった。

ホストファミリーが一斉に部屋の中に呼ばれ、右から順番に誰がどこの家に行くかが発表された。私のホストの名前が呼ばれたのはほとんど最後のほうだった。最初のホストファミリーの印象は、凄い威圧感のあるお母さんに優しそうな凄く背の高いお父さん、ホストブラザーは2歳年下のはずなのに私よりも背が高く、お兄さんに見えてしまったりした。

それからホストファミリーに連れられ車に乗り込んだ。この時、初めて日本人が自分一人だけになってしまっていることに気づき、とてつもない恐怖感が沸いてきた。そんな気持ちのまま車は家に着いてしまった。この時点で私は緊張でガチガチになってしまっていた。しかし、そんな緊張を忘れてしまうような光景が目の前に広がった。そこには広々としたプール、そして、芝がきれいに整備された庭に大きなトランポリンが置いてあり、奥からは大きなシェパードが出迎えてくれた。

自分の新しい部屋に案内された。私は一通りの荷物を整理し、一段落した所でお母さんに呼ばれ、そこに行くと家族全員が集合しており、そこで正式にみんなから自己紹介があった。そこで自分も教科書通りの挨拶と自己紹介をした。そこからホストの質問攻めが始まった(今にして思えばまったく普通の会話だったのだが)。最初は何が好きなの?とか当たり障りのない話だったが、しばらくするとホストたちが全く何を言っているのか分からなくなってしまった。それでもホストからの質問は続き、最終的には何を言っているのかわからないにもかかわらず、ただうなずき何度も”YES”とだけ答えていた。自分はその時その場から逃げたくて逃げたくて仕方なかった。

やっとその場から開放されそのときは難を逃れたものの、またその夜ご飯のときにも同じように何を言っているのかわからない、そして、言いたいこともいえない状態だった。そのときはスマイルと”YES”で乗り切ったものの、その日の晩のベットの中では泣きそうになっている自分がいて、その1日だけでも自分たちの言語の壁を感じるには十分だった。

 

挑戦

留学が始まって約二ヶ月、私は、まだホストファミリーとのコミュニケーションが1日10フレーズ以下と言う状況が続いていた。そのときのホストマムは、「Shuheiは私たちの事が嫌いでこんなところに居たくないと思っている」と思っていたらしい(卒業式後にホストマムがくれた手紙にそう書いてあった)。自分はそんなことは微塵も思っていなかったし、むしろもっと喋りたかった。2ヶ月もすれば英語のリスニング力は来たときに比べると格段に上がり、何を言っているのか少しは分かるようになっていた。しかし、話をするとなると話は全く別のものになる。学校ではESL(英語が第二言語の人のための教科)が始まっており、その頃までには多少の英語のフレーズを覚えていたものの、やはり自分の言っていることはあっているか、そして、これを言って相手が不快にならないだろうかなどと考えていると、やっぱり喋るのを諦めてしまっていた。

そんな時ホストマムに呼ばれ、一対一で話す事になった。その時言われたのが「脩平は何の為にここに来ているの?」と言われ、私は「英語を喋れるようになるため」と答えた。するとマムは、「あなたはこのままだと絶対に喋れるようにはならない。だってあなたは喋る努力もしていないし、私たちを避けている」と言ってきた。言われた時は正直ものすごく腹が立ったが、良く考えてみると、そう思われたのは自分にも責任があったと思い反省した。

マムがある提案をしてくれた。その提案は、自分とホストファミリーとの間がものすごく近づく事が出来る結果となるものだった。それは、毎晩一つ、晩御飯を食べている最中に何でもいいから話題を作ってそれについて話してホストに意見を聞くと言う方法だった。それから毎日、話題を作ってホストの前で話しをした。最初は、今まで喋っていなかった分ぎこちなかったが、ホストファミリー全員がしっかり聞いてくれて、自分の言ったことに対して返事をしてくれるのは本当にうれしかった。自分が恐れていた英語の間違いも正しい文章に言い換えて言ってくれ、マムも「間違っても全然かまわない。英語が主要言語の自分たちだって間違うことはある」と笑って言ってくれて、この時自分の中で何かが吹っ切れたような気がした。それからはホストともしょうもない事も言い合えるようになり、言語の壁に少し穴が開いたように感じた。学校の生活でもそれは一緒で、言語の壁に対する考えが変わったことによって毎日の学校生活も楽しくなったし、英語の勉強も凄く頑張るようになれた。

以上、シュウヘイ君のストーリーの前半でした。

少し、説明を加えさせてください。

ICETは、学校の成績よりも生徒の熱意を重んじます。

その理由は、まず、人間は、熱意があると不可能を可能にしてしまう力が出せること。

成績があがるあがらないは、学習方法が合っているか、学習しているものに関心があるかによって大いに異なり、必ずしも、その子どもの可能性を全部反映するものではないこと。

環境を変えることにより、人間は、それまで見えなかった才能を開花させることが多々あること。

そうした理由から、ICETは、創設当時から、生徒本人の熱意を留学の軸に置くことにしました。ある特定の教育制度の中で測られ、見せる成績で人間の可能性を絞ってしまうことはしないでおこう、人間を育てることを軸にしよう、と。

その姿勢は、創設以来ずっと変わっていません。熱意と情熱があったら、人間は、とてつもないところに到達します。それは、子どもたち自身が証明していることです。

 

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