「可能性を広げた留学」2

投稿日:2013年11月22日

言語の厚い壁を乗り越えるための新たな挑戦を自分に課したシュウヘイ君の先日のストーリーの続きです。

 

決断

話は少し先に進んで、1年留学が終わりになってきた頃、自分の英語力は来た当初とは比べ物にならないくらい成長していた。しかし、この成長は、英語力がゼロ(もしかしたらマイナス)からスタートしたものであって、他の人から見ればまだ話にならないレベルだったと思う。それは自分でも十分に承知していたのでこのまま帰るのでは自分が納得できないと思い、ICETの先輩に話してみたところ、もう2年残る選択肢があることを教えてもらった。早速親に相談してみたところ、親は「やりたければやればいいしお金も出したる。でもそれは自分が決めたことやから卒業できなくても親のせいにはするなよ」と言われ、ちょっと不安にはなったが、一応OKをもらった。

次に房枝先生に3年留学の意思があると伝えたところ、先生は困った顔をして「残るのは難しいと」言われた。その理由は、私の英語の力と大阪学芸からの一期生であることだった。確かに11年生からは、ICETを半分離れてDavidsonに半分入るようになり、ICETではなくDavidsonの成績として求められるようになる。そうなると英語力の低い自分にとっては必然的に不利になり、卒業はおろか11年生から12年生に進級できなくなってしまうからだった。しかし、そんな事を言われてへこたれる私ではなかった。なぜならそんなことは留学に行く前から同じようなことを何度も言われていたからだ。何度も房枝先生と話し合い、やっとの事で許可が下りた。この時は親が先生に頼んでくれたおかげでもある。本当に感謝している。(注*)

 

二年目スタート

一ヶ月ほど日本で休暇を過ごし、またオーストラリアに帰ってくる日がやってきた。久しぶりに会った友達や親にも別れを告げ、また飛行機に乗り込んだ。この時は一年目とは違い少し余裕を感じて日本を離れる事が出来た。そしてシドニーに着いてすぐ2、3年目の人だけで集まってキャンプが行われた。そのキャンプ内でする事はその年にくる1年生をどの様にフォーローするだとか自分の勉強方法の見直しなどが主だった。

キャンプが終わり、その年の1年生が来て新しい学年の新学期が始まった。みんなに置いていかれないように必死に頑張って勉強して、だんだんと生活リズムが分かるようになり、余裕が出来てきた。しかし、余裕が出来たと言っても学校から求められている成績には全く届いておらず、クラスでもほとんどの教科において順位が最下位あたりだった。その事で何回も先生たちとの時間を持った。ホストにもものすごく心配された。この時になって少し2年目に残ったことを後悔した。しかし、泣き言をいっても自分のことなので必死に頑張った。そのかいあってか、その年の終わりにはphotographyの授業の部門で賞を取ることが出来た。

先輩として

2年目になっても、半分はICETの一員なので、ICETの行事に色々と参加しなければならない。しかも、2年目は参加するだけでなく、自分たちが実行委員としてだ。例えばICETの行事の中でも1番大きいURAフォーラムは、文化や国籍などさまざまなバックグラウンドを持ったオーストラリアの高校生と、ICETの生徒たちが世界のさまざまな問題について話し合う場だ。1年目は分からないながらも参加して乗り切ったが、2年目になると自分が裏方にまわり1年生をフォローしなくてはならなくなった。色々なミーティングに参加し、みんなでこうしたらもっと良くなるとか、どうすればみんなが発言できるようになるかなどいろいろ考えたり動いたりした。この時初めて、去年の先輩たちが自分たちのために動いてくれ、大変な思いをしてくれていたことが分かり、改めて先輩たちに感謝をした。

 

オーストラリア最後の年

11年生を何とかクリアし12年生に進級することが出来た。12年生になると卒業を目標にしていた自分に新たな目標が出来た。それは大学進学だった。もともと日本の高校に進学したときも大学進学が目標にあったので、必然的にこの目標に切り替わった。とは言っても、日本の大学も留学をしていたという理由だけで取ってくれるような、そんな甘いところはない。でも、私には、どうしても行きたい大学があった。中学から夢見て憧れていたところだ。でも、そこには、突破しなくてはならない関門があった。それは、入試資格としてあるTOEICだ。基準値を超えないと受験すらさせてもらえない。このために何度か模擬も受けたりしたが、学校のアサイメントやテスト、受験のための願書書きなどを平行して行わなければならなかったので本当に大変だった。それでも何とか基準値を超えることが出来て受験する資格を得ることが出来た。

願書を書く時や面接の練習、小論文の練習のときには、房枝先生がつききりでアドバイスをしてくれたり、小論文は2年の時から書き方や文字の添削などをしてくれた。これは、ICETに留学している人の特権だと思う。なぜなら違う留学機関で留学している生徒たちは、ICETのように日本の先生がついているわけではないので練習があんまり出来ないし添削も自分でしなくてはならない。しかし、学校の勉強と平行してするには限界がある。受験のために必要な書類を揃えてくれ、2年間学習のサポートをしてくれたマニング先生にも感謝している。そのおかげで無事大学にも合格することが出来た。そして、高校も卒業出来た。

ここまでくるのには色々、大変なことはあったが何とか乗り越えることが出来た。その裏にはICETの先生方そしてホストファミリー、DHS校の先生方、それに日本の親がいたからこそ出来たこと。この3年間の体験は日本では絶対に出来ないもので、これから生きていく上で絶対に役に立つと思うし、励みになると思います。

本当にありがとうございました

 

 

以上が、シュウヘイ君のストーリーです。

これだけ赤裸々に綴れるということは、本当に自分の全力を注いでやりきった満足感と自信があるからでしょう。

私は、「人生は情熱が支配するもの」ということを心底信じています。

自分の人生に燃えることができるよう、夢中になれるものを持ち、無ければ探し、自分が挑戦するものに全力を注ぎ、自分が自分の人生を生きているという感覚を自分のものとするよう若者たちに言い続けてきています。

それにも関わらず、本当に稀なことではあるのですが、たまに、社会の期待や体制の前に立ち止まってしまうことがあります。無理ではないかという想念が暗闇からはいのぼってくる瞬間です。そんな時に、既成の観念ではないよ、最終的にすべてを越えるものは、情熱だよ、と思い出させてくれるのが生徒たち自身なのです。シュウヘイ君は、それをまさに目の前で展開した若者の一人です。

ICETの3年プログラムは、もともとは、1年留学に来て、こちらでの学習方法が自分に合っていると感じ卒業まで残る選択をした生徒たちが、自力でそれをやってのけることの大変さ、悲劇となってしまう危険性を目撃したことで、きちんとしたプログラムとサポートがあることを痛感した結果構築したものです。これによって、3年間直接に留学してくる若者も、最初からしっかりとしたプログラムに乗って学習を継続していくことができます。

日本の高校に在学している生徒は、1年という期限付きで、学校からお預かりしているのですから、1年の留学を終わって、残りたいから残れるという単純なものではありません。

1年が終わったら、日本の学校に戻ることが原則です。それ故に、留学中に、ICETのスタッフから、生徒に対して、あるいは、保護者に対して、残ったらという働きかけはありません。それが、日本の学校に対するICETの礼儀だからです。

もうひとつ考慮すべき重要な点は、精神的・社会的・学術的にICETがサポートしているのですが、2年目からは、法的には、ICET生ではなく、DHSの生徒としてNSW州の管轄下におかれるということです。この法的ベースがなければ卒業資格は与えられず、同時に、生徒の成績は、すべて学校の業績レベルの一部として数えられることになります。DHSがICETの卒業生を受け入れてくださるのは、絶対的なサポートがあるからです。

残りたいと希望する生徒の最終的な成果を確かなものとし未来の道に続くものにする同時に、日本の学校とDHSへの影響を考える必要があります。生徒が2年目も残りたいと言ってくる瞬間から、私の葛藤が始まります。

シュウヘイ君は、残りたいと日参してきました。懇願、嘆願、なにがなんでも置いて欲しいと。親御さんからのお願いがあったからではまったくありません(笑)私が結論を出すのに必要なのは、生徒の目や表情の輝きと身体全体から発せられるエネルギーと言葉を裏付ける行動での証明です。

それだけ一人の若者が切望することであれば、それが叶う支援を出すことが私の使命なのだと・・・と思わせるシュウヘイ君のパッションでした。

その彼は、それから2年後、帰りたいでもシドニーを離れたくないと心をふたつにしたまま、達成感に満ちて、そして、未来への希望に燃えて、人生の次の幕を開けるべく日本に飛び立ちました。

 

 

 

 

 

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