自分のスタンダード
投稿日:2014年2月16日
ソチでのオリンピックは、悲喜こもごも。
英雄が生まれる一方、切ない場面もあり、たくさんのストーリーが語られます。
スポーツは、勝ち負けを競うものであるが故に、その結果の命運は、そのまま受け止めるしかなく、その結果によって、次の挑戦に向かうか、別の方向に向かうか、といった選択をしていきます。
その厳しさは、特に、オリンピックのようなレベルになるとことさらに尋常ではなく、英雄になっても、その後の人生での対応は決して易しいものではありません。オーストラリアには、イアン ソープという水泳の大選手がいます。彼は、金メダルをいくつも取り、選手当時は、時の人として世界的なすばらしい活躍をしました。
彼が当時言っていた言葉が印象に残っています。
「何かに秀でるためには、犠牲になることがあっても仕方がない」ということで、彼は、4歳の頃から毎朝4時過ぎに起き、水泳の訓練に行き、放課後は学校からプールに直行。彼が犠牲にしたことは、水泳以外のことをするチャンス、そして、放課後に友達と遊ぶ時間でした。
「みんなととても遊びたかった。でも、水泳が優先だった」
そのお陰で彼は、世界王者の座に何度も輝きました。2000年のシドニーオリンピックでは、金メダル3銀メダル2を。水泳の世界チャンピオンシップでは、4年間に合計11個のメダルを獲得しています。
そして、2014年の今、彼は、精神的に完全に疲弊し、精神療養のリハビリ病院に入っています。その報道は、好意的で彼のことを心配してというよりは、好奇のものが多いことを見ると、英雄となることには、その代償が伴うことを、多数ある中のまたひとつの例として、悲しく眺めるしかありません。払う犠牲が如何に大きいかを物語るものなのかもしれません。また、栄光の座から、同じ量だけの光が当たらなくなった時の難しさを物語っているのかもしれません。
ひとつのことに秀でるためにほかのことをすべて犠牲するというのは、ひとつの生き方です。それが、良いとか悪いという判断は、他の誰にもできません。そして、すべきでもありません。それは、その人が選んだ、そして、その人にしか選べない道だからです。
私たちは、毎日、選択をしています。朝起きる時間も選択。何を食べるかも選択。何を着るかも選択。何をするかも選択。誰と、どのようにつき合うかも選択。選択しないことも選択。私たちのすることなすこと考えること、すべてが選択です。それを意識して選択している人もいれば、惰性で何も意識することなく選択していることもありましょう。
その選択が、人生を創り、生き方の軌跡を刻み、そして、ひとつの人生のストーリーを作っていくことを意識している人もいれば、意識していない人もいます。
誰かがそう言ったから、他の人がそうしたから、誰かに勧められたから、というのは、実は、ナンセンスで、人がどうしようと、人からどう言われようと、最終的にその行動を選んだのは自分であることを意識することは、毎日の生活にけじめ、締め、緊張感を与えます。
留学に来て、最初の数週間は、緊張しているために、ベストの行動を示します。慣れてくるに従って、言葉が乱れ、礼儀が乱れ、約束したことが守れなくなり、人々に向ける表情に相手に対する考慮が消え、最初にできていたレベルが落ちて来ることがあります。これは、人間の常です。人間の性です。易きほうに流れる、そのほうがらく。まったく当たり前のことです。
新しいことに挑戦するのは、実は、そんなに難しくはないのです。ちょっと勇気を出したらできます。それは、新しいことに挑戦することには、ときめきがあるからです。
逆に、新しくできるようになったことを新しいスタンダードとして保つことは、以外に難しいのです。なぜなら、惰性に流されることは、とってもらくですが、水準を保には、意識が要ります。そして、意識を維持するには、努力が要ります。
できたことを水準として保てば、そこにプラスされることは、さらに水準を高めることに通じます。流され、惰性に落ち、水準を落とせば、せっかくできたことでさえ、もう一度そこに戻るには、また新しい努力を追加しなければならなくなります。
高い水準を保つことは、仮に努力が要るというしても、その努力を続け、そこに見える自分が、誇りとなり、尊厳となり、そして、やがて、それが自分自身になっていきます。特にそれが数値を出すことではなく、礼儀や言動が良いものであり、約束を守り、他の人々に16歳の爽やかな笑顔を向けるということであれば、誰と競争するわけでもなく、他の何かを犠牲にするものでもなく、その人のなりを創るものであるのならば、ぜひとも、その水準を自分のものとしていって欲しいものですね。