第二言語の学習
投稿日:2014年10月3日
今日は、なぜ、ICETのプログラムがあるのかをお話します。
第一言語を学ぶ過程は、比較的明瞭に研究されています。生まれた環境が大きく左右しますが、子どもたちは、3歳までに頻繁に耳にする音は、再生することができ、その後は、頻度が減れば減るほど、そして、年齢が増せば増すほど、再生が難しくなります。
ある日本人の先生たちのグループが幼児教育の研究のために来豪し、小さな子どもたちを見て、「幼稚園児でも英語が話せる! うらやまし〜い!」とため息をついたという、今では、笑い話になっているものがあります。
そりゃあ、大学卒業するまで週に何時間勉強してもなかなか使えるようにならない教育を受けた国から来た人々にとっては、幼稚園児が自由に英語を使っているのは、羨ましい限りの話ですよね(笑)
でも、フィンランドに行けばフィン語を、ロシアに行けばロシア語を、メキシコに行けばスペイン語を、みな当たり前のこととして話しています。日本で生まれれば、そして、両親が日本人であれば、子どもは自然に日本語を話すようになります。
多くの日本人が英語の発音で悩むのは、ある意味で当然なのです。例えば、RとかL、THとかDといった日本語に存在しない子音は、中学校あたりで学習し始めても、耳は、上手に聞き取ることも難しい、ましてや、再生するなど、とても難しいことなのです。その意味で、胎教は、正解なのです。ただし、きれいな発音を聞かせることが絶対的に大事となります。
音だけでなく、子どもたちが頻繁に耳にする語彙についても研究がたくさんあります。それは、両親が会話の中で使う語彙が、子どもの将来の知的活動を大きく左右する、というものです。これも、十分納得が行きます。本がたくさんある家では、自然に本に触れるようになるでしょうし、両親の会話が教養あるものであれば、子どもの中には、自然にそうした話題が積み重なっていきます。両親が日常できれいな言葉を使えば、子どもも自然にそれを受け継いでいきます。
昨今、頻繁に行われている研究は、二言語、三言語に囲まれた子どもの脳の発達に関するものです。日本ではあまり起こらない状況ですが、国際結婚などでは、父親と母親の言語が違います。ヨーロッパやオーストラリアでは、家族の中に祖父母まで含めると、2つ、3つ、4つと違う言語が混在する場合がたくさんあります。
子どもが話し始める時期が一言語よりも比較的遅れたとしても、言葉を使い始めると、イタリア語しかわからないおじいちゃんにはイタリア語で、英語を使うパパとママには英語でといったことが自然に起こるという話をよく耳にします。
こういう環境にある子どもの言語発達に関する記事は、特にここ5年ほど頻繁に見かけるようになりました。それによりますと、二言語を発達させていく子どもたちの脳が受ける刺激が大きいために大人になってからの知的活動もより盛んなものになる、というものです。
以上は、二言語が、あるいは、三言語が生まれた時から周囲に存在する場合についてでした。
では、第一言語をある程度確立した後に、第二言語を習う場合には、どうなるか。これには、様々な説があります。なぜながば、バックとなる条件が様々に異なるために、簡単に、こうだと言いきれないことです。例えば、英語とよく似た言語が母語ならば、英語の学習は比較的らくです。年齢も多いに関係します。母語の発達度も関係します。子どもの関心や能力や言語センスも多いに関係します。
第二言語を使う環境がどのくらいあるのか。誰がどういう方法で教えるのか。まったくのバイリンガルでなければ、どちらが論理的思考を司る言語となるのかなどということも関連します。
オーストラリアの学校に留学してくる一番の目的は英語習得だと全員の生徒が揚げます。移民や海外からの留学生が多いオーストラリアは、国をあげてESL(English as a Second Language)の教育に熱心にあたっています。1日も早く学習の環境に、仕事の環境に人々が言語の壁で遅れを取らずに本来の力量を発揮できるための国策です。
留学してくる生徒の中には、昨今では、2歳から英語を勉強しているとか、小学校から勉強しているという生徒たちの数が増えてきています。誰もが、中学校から少なくとも4年間は英語を勉強してきています。単語もたくさん知っています。でも、留学の初めは、まったく会話が成り立たないという生徒たちの数は少なくありません。
日本人の知的能力は高いと思われますか? まだ、IQテストが盛んだったしばらく昔のこと、世界の知能指数という表で、日本が一番高かったことを記憶しています。このIQテストそのものに、今では、非常に懐疑的であり、その信憑性を疑うのですが、そういいながらも、日本人の知的能力が高いことは、実生活の至るところで証明されています。
それなのに、英語のテストとなると、まあ、なんともお粗末なのです。
Education Testing ServiceというTOEFLを提供している機関が発表したアジアおよびOECD諸国の受験結果では、2012年に受験したTOEFLの結果は、日本人受験者の平均点は70点。68点だったトルコに次いでアジアで19カ国の中で下から2番目、OECD諸国間では英語が公用語でない15か国中最下位という悲しい結果で、インドが平均90点、韓国84点、中国77点と比べるとかなり差があります。
まあ、TOEFLがそれでは英語力を適正に判断する試験かというと、テストはテスト、いずれのテストも英語力を総合的に測れるものではないのですが、ひとつのものさしではあります。
知的能力の高いはずの日本人がこの結果というのは、おかしくありませんか?
ということは、日本での英語教育は、相変わらず、使える英語を教えていない、と言わざるを得ないのです。そうですよね、大事なのは、「文法」なのです、日本では。文法が間違っていなかと恐れるあまりに、英語圏にいるのに、長い間英語の言葉を発せられない生徒だっているのです。
Englishを学ぶために、日本語というフィルターを通し、文法という構図を先に頭に入れさせようとするために、言語としての自然の流れを失い、文法という枠から抜け出せなくなってしまうからです。言わんとすることが文法的に正しいかどうか確認できないと、何も口から出せないのです。
なんということ! なんというフラストレーション。学びほうにも、教えるほうにも。
おまけに、日本語と英語は、かけ離れて違う言語です。
「英語」という教科は、日本が作り出した独特の「一教科」で、English Learningのための教科ではないのです。ここに、日本人がいつまで経っても日本での学習では英語に上手になれない罠があります。
学校での英語教育で英語が使えるようになったという方がいらっしゃいますか? 使えるようになった方は、塾とか個人レッスンとか留学とか、学校以外でのレッスンを受講されていらっしゃると思います。
小学校からの英語教育が導入されていますが、日本の「英語」教育が従来のままを引きずるのであれば、自由に話せるようにはならないといっても言い過ぎではありません。
また、長くなってしまいました。今日は、ここまでにします。