第二言語の学習2
投稿日:2014年10月4日
学ぶ、あるいは、教える、ということにはそれぞれの目的があります。
日本の「英語」学習方法が発達したそもそもの発端は、蘭学の翻訳にあります。鎖国時代にオランダから入ってくるヨーロッパの文化や技術や医学などを日本に情報として取り入れるためには、オランダ語を正確で緻密に訳す術を要したことでしょう。
江戸時代末期から明治初期にかけてたくさんの人々がアメリカやヨーロッパ(特にイギリス、フランス、ドイツ)に留学するようになり、オランダ語に代わる言語の導入が始まりました。いずれも、まずは、理解して情報として使えるようにすることが第一です。ここでも、翻訳が圧倒的に必要とされます。留学中は、英語を学び使っても、一旦日本に戻れば、教えること以外に、実際に英語を言語をして使う場はありません。
力が入るのは、正確な翻訳、であったことは容易に想像がつきます。そして、日本での英語教育が始まりました。恐らく、英語という言語の形、それを訳すための知識の伝授であったとしても、これも不思議ではありません。
堺屋太一氏が書かれた「日本を創った12人」の後編に、日本の官僚制度が大久保利通によって築かれ、帝国大学(現在の東京大学)が新しい日本を指導していく「官僚」というエリートを創出するために創設されたとあります。
なるほど、東大信奉は、こうしてできたのかというのがよくわかるだけでなく、どの高校も塾も生徒を東大に入れるが今現在も最高の目標である現実を見ると、ある意味でコミカルではあるものの、大久保利通のビジョンがしっかりと日本社会にこれほどまでに浸透したことに、また、システムというものの凄さを背筋が寒くなるほどに改めて感じます。
ここからは、また、私の推測ですが、そういう人たちが勉強した「英語」その「学習方法」をそのまま踏襲し、緻密な記録力を発達させる学習ができる頭脳を測るものを必要とし、それが入試であるとすれば、その考え方が他の大学にも波及したことは当然の流れでしょう。
その大学受験があるから、高校での文法学習が欠かせないのだという議論も、いろいろなところで起こっています。同時に、この大学受験のための英語学習でなければ、もっと、使える英語を教えることができるのだ、という議論も。
その間にも世界は、どんどんと変わっていっています。
いろいろな国の間を行き来し、様々な人々との交流が起こり、ビジネスの範囲も広がり、情報量も無限に広がっていく。そこに要るのは、緻密な翻訳能力ではなく、実用的に使える英語力です。そして、コミュニケーションができる英語です。
高度な学習ができる英語、企業で使えるビジネスの英語、意思疎通ができるコミュニケーションとしての英語力を持つことができれば、世界は、一挙に大きく広がります。
日本の企業においては英語を会議の公用語とする会社もあり、業務で使える英語の技能を持つ人の需要は増えるばかりです。
学校での英語教育はそれに対応できるものになってきているのでしょうか。
相も変わらず、緻密な文法重視、そして、難しい語彙の記憶学習方法は、今でも変わりません。もちろん、使える英語を教えるための斬新的なカリキュラムを導入している学校もたくさんありましょう。しかしながら、 学校教育の現場でなかなか思い切った変革が起きてこないのは、それが実際的には、とても難しいことだからです。
ひとつには、「英語」だけでなく、これだけ変わりゆく社会、世界に適応していくためには、子どもたちが何を学ぶことが必要なのか、そのためには何をどう教えればいいのか、という根本の議論と変革が必要とされるからです。大変化を起こすのではなく、今の状態を少しずつ良い方向に変えていくというのが日本の進歩のスタンスなので、根本が変わるということは考えられません。
また、仮に「使える英語」を学んでも、それを実際に使うところが日常の環境の中に無いので、ちっとも「実用的」になりません。
だからこそ、留学でそれを習得したい、ということなのでしょう。
続きは明日に。