「奇跡の学校」を拝読して3

投稿日:2014年10月12日

オーストラリアサイドでもいろいろな出会いがありました。当時のなつかしい思い出がたくさん出てきます。

「運命的」というか、新しいプロジェクトの行方と未来の成功を決定的なものとしたのは、Edward Gavin氏との出会いでした。彼の経歴と教育ビジョンが、特異な構築を可能にし、現在に至るまでのプログラムの軸となっています。

先日お話した私が勤務していた学校に、ある日、一部の隙もなく黒いスーツを着こなし、ひげもじゃで、眼鏡をかけ、ものすごく威厳のあるオーラを醸し出している紳士が数人を先生たちを引き連れてやってみえました。

この地域一帯の学校を管理する教育委員長だということ。日豪の子どもたちが一緒に学習している学校を見学に見えたのです。帰り際に、「何かお役に立てることがあれば、おっしゃってください」という儀礼的な挨拶に対して、

「ああ、それなら。ちょうど、校長会を開催しようと思っているところなので、その場所を提供していただけるかな。」

「????ムムムム。。。」

後でわかったことは、会議室さえあれば良かったというくらいのことだったのですが、そこは、日本人のこと、場所だけ提供するなんてことができるはずもなく、校長会は、ひとつの落ち度もなく完璧に、と至れり尽くせりのサービスとなり、もちろん、出席された校長先生がたもギャビンさんも大満足。

それからしばらくして、森先生から、「実は、一クラス全員を」というお話があったのですが、これは、あの方に話を持っていくしかないと相談を持ちかけると、話はあっという間に展開していきました。

ギャビンさんは、NSW州の教育省にいらして、大臣の教育顧問をされたり、NSW州の学校にESLの普及を推進されたり、日本がいくつも入ってしまうような広大な州の遠隔地にも教育が行き届くよう通信教育を普及されたり、外国語教育の導入をプッシュされたりといろいろなことをされてみえました。

交換留学制度は、あっという間に成立しました。そして、学芸館高等学校との姉妹校を増やすことでも、適宜な学校を紹介いただき、根回しができているので、話は、ポンポンと決まっていきます。どの学校にとっても、メリットをもたらすことなので歓迎されました。

岡山学芸館高等学校の英語科の生徒たちが預っていただくことと交換ではあったものに、交換留学制度を通して、その後、学芸館高等学校がオーストラリアへの学校に寄与した貢献は、とても大きなものでした。

日本から森校長(当時)先生ご夫妻がお見えになられました。たまたまある学校では、校長先生のお名前がMoodyさん、教頭先生のお名前がLoveさんという、なんとも言えなくユーモラスなコンビネーション。ランチにその校長先生のお家に招待され、その日は、森校長先生の50歳のお誕生日。なにか、とても明るい未来を感じさせるものでした。

教頭先生のLoveさんご夫妻は、それから10年余、ホストファミリーとして生徒を受けてくださいました。

1000キロも離れたコーバーという小さな町にご案内した際には、途中の道には、400kmくらいひたすら直線が続くところがあります。何十キロもすれ違う車も前後の車も無いところなので、カーレースをされるギャビンさんは、「スピードを感じたい?」と森先生によからぬ信号を送ります。あっという間に車は時速200キロを超えるものすごいスピードに。わずか数分の間だけでしたが、二度と体験できない瞬間となりました。

コーバーでも、運命的な出会いがありました。後に現校長先生の健太郎氏の奥様になられる真裕美さんが日本語を教えてみえました。ご当人どうしはその時にはまだ出会われてないのですが、美智子夫人の、「こういうふうにおにぎりが固く握れる女性は、いいお嫁さんになるのよ」という予言が後に的中することになります。コーバーのような文明から離れた僻地で日本語を長期で教えるというのは、本当に意思の固い、そして、志の高い極めて自立した方でなければできないことです。特に、若い女性であれば、なおさらのこと。

もう一人、シャロンといういろいろなエピソードのある型破りの日本語の先生がいらっしゃり、何年間かここで生徒たちが年に一人か二人、お世話になりました。

話が少し横道にそれ、数年後のこと。そこにチック先生というまた変わったお名前の新しい校長先生が赴任されます。正確な数字は忘れましたが、40キロ x 30キロというような巨大な牧場を持ち、4000頭の羊がいるのに、その姿を追って30分も小型トラックで走っても見つからないということもありました。

ある留学生が、その農場で、ヤギやカンガルーを空気銃で撃ち、肉をスモークしたり、ダムの近くで他の生徒たちと泳いだり野宿するような機会もあり、田舎ならでの生活を楽しんでいたのですが、ある日、「先生、ぼくをこんなところに送ったことを恨みます」という連絡が入りました。一体何事かと1000キロ訪ねていってみれば、牧場のお手伝いで、生まれて数日しか経っていない仔羊の尻尾をハサミで切り落とす作業をせよと言われ、嫌だと言っても、「これは、羊を衛生的に管理する生活の知恵なんだ。”Do it!” と言われて、気絶するほどに堪え難かった」ということなのでした。

羊は長い尻尾を持って生まれる動物なのだと私が知ったのはこの時だったのですが、この生徒は、最後に「本当にありがとうございました。僕は、ここに来ることができて良かったです。貴重な体験をしました」ととてもていねいな挨拶をして日本に帰っていきました。

そして、このチック先生。数年後、牧場を売って、シドニーの近くで牡蠣の養殖を始められました。前に日本を訪問し、森先生のことが大好きなチック先生は、これ以上特別なおみやげはないと生牡蠣を一袋を背負って日本に行かれました。海産物は検疫にかからない日本。ご自宅の食卓に並んだ牡蠣を見て、純真な善意を前にして断ることもできず、森先生は、食中毒を半分覚悟で食されたということでした(ご無事でした)。

姉妹校ができるたびに、すてきな校長先生や外国語の先生、特に、日本語を教える熱心な先生方との交流が始まりました。どの方も、本当に親身になって、日本からやってきた若者たちのケアをしてくださいました。

続きは、次回にします。

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