Identity
投稿日:2011年4月21日
人はみな違います。それぞれにユニークです。
そのユニークさは、その人だけに根ざすものであり、その人を表し、その人を他の人々から異ならせるものです。それがIdentityであり、自分が自分であることの証しです。留学は、そのidentityを明確にする「自分は誰」と問う過程を通らなければならない期間です。
日本を出て、他の国の人々との交流を持ち始めた瞬間に、それまではほとんど意識することがなかった「日本人」という新たな概念、価値観を周りから付加されます。「立派な日本人として」成長するための教育を受け、留学前には、「日本人として恥ずかしくない行動を取りなさい」と指導されます。でも、その段階で意識する「日本人」という概念と、外国に出て自分が「日本人」として意識する「日本人」の概念には、大きな差があります。
日本を出る前の自分の日本人の意識は、集合的なものです。日本の国、社会全体が、「日本」「日本人」として取り扱われます。したがって、その中の一人として存在している間は、まだ、日本という国に生まれた自分、日本という国籍を持っている自分、他の国から隔てられている日本に住んでいる自分です。
震災を通じて、日本人の資質が世界を感動させたことで、「日本人のありかた」が見事だと言われ、今ほどに、日本全体が「日本人」ということについて触れ、考える機会は歴史の中でもそう多くないのではないかと思います。平穏な毎日の中で、自分が日本人であるということがどういう意味を持つかなどということは、日常の中ではあまり深く体感し、考える場に巡りあうことは稀です(その専門家は別です)。
ところが、外国に出ると、その日本の国、社会を背負っている一個人としての「日本人」である自分が浮き彫りとなり、周りの人々の意識の中にも、自分が「日本人」であるということが厳然と存在することに気付くようになります。外国にいれば、始めて出会った人との会話には、「どこの国から?」「国籍は?}と聞かれるのが通常です。その質問をぶつけるのは、その人の背景となる文化、価値観、宗教観など、その人の持つidentityを知りたいからでしょう。
生徒たちも、日本の文化や政治や社会についていろいろなことを聞かれます。その段階になって初めて、「しまった!日本のことをもっと勉強しておけば良かった。」というつぶやきが漏れてきます。留学前に、「日本のことについて勉強しておきなさいよ。調べておきなさいよ。」というのは、散々先生方がたから繰り返し言われてきたことです。日本にいる間は、自分がまだその文化を背負っている、という意識を持つまでには、年齢からしても至っていないのかもしれません。
「自分が誰か」「自分を作り上げているものは何か」という真剣な模索は、自分のIdentityを作るものの中に、「文化」や「歴史」や「精神性」や「美」や「伝統」や「流行」などその国のすべてを統合した、そして、「それに対する他国からの評価」までも含む、「日本人」という要素があるのだと認識する時から始まります。
留学は、それを否応なしに感じざるを得ない時です。留学が9年分の成長にあたいすると言われるのは、おそらく、この部分が大きなものを占めるのではないかと私は思います。
最初は、日本の生活の便利さを思って、「日本はいい国」という言葉が出ます。1年の終わりくらいには、その裏にある日本文化の精神性を感じるようになって、「日本人で良かった」「日本は、すごい!」という言葉が出るようになってきます。
自分を創り上げているものが何かを理解することは、自分という人間の土台をしっかりと認識することであり、人間が生きていくうえで極めて大事なことです。この部分がしっかりしていれば、自分をしっかりと確立することができ、自信を持つことができます。そして、自分の望む人生を歩む可能性は、そこが揺らいでいる人よりもずっと大きくなると思います。
Identityを作り上げているものは何か。祖先から続くDNA、両親の遺伝子、家庭の精神性(両親が示す周りの人々との関係、子育ての考え方、思想、宗教、職業観、社会観、生き方等々)、誕生から今にいたる体験、これまでの学習、育った国の文化、使う言語、生活様式、社会の常識、道徳観、倫理観、価値観、世界観などなど様々なものを含みます。
シドニー到着早々のオリエンテーションで子供たちに伝えることは、留学で得ることは、それまでに築いてきたものに加えるプラスであり、それまで築いてきたものを入れ替えるものではない、ということです。付加された価値を以前のものに加え、その中で総合的に良いものを積み上げ、不要なものを捨てていけばいいわけです。新しい情報、新しい概念をどう自分のidentityと結びつけるかは、それぞれの志、生き方、人間性、価値観、世界観などによって違いましょう。
留学中の子供たちが向かう世界は、未来の世界です。それぞれの持つ未来のビジョンに沿って、その世界に耐え得るもの、その世界で役に立つもの、その世界で自分を発揮できるものを身に付けるために、あえて日本から出てきているのでしょう。その中のひとつには、自分が日本の未来を背負う一人であることの意識も必然として育ってきます。
先日の募金運動は、「日本」という見えないものを彼らは背負ってショッピングセンターに立ちました。だからこそ、普段感じない力も持つことができたのでしょう。来週から、10年生の生徒たちは、キャンベラ、カウラへ旅立ちます。学校で習うものではなく、その旅は、両国の文化、歴史にたくさん触れるものです。そこでも、itentityをいろいろと考えることになります。
同じ事実であっても、二人の人間がいれば、そして、立場が違えば、その事実の解釈は大きく違ってきます。地動説のような永遠の真理さえも宗教という力でねじ伏せられました。ましてや、歴史の解釈などは、どの時代に、どの国で、どの立場で観るかによって、まったく異なってきます。留学中、オーストラリアに住むのであれば、この国の歴史に触れることがあるのは当たり前です。避けて通れない道です。私たちの課題は、それをどういう角度から見せるのか、ということです。
ICETでの学習は、2つの立場を軸にしています。
1 その時代に、その歴史の流れを通っていた人々がどう生きたのか。その中で、人々が何をどう考え、人間としての尊厳を失わないためにどう生きてきたかをさまざまな角度から見てみる。
2 もうひとつは、情報は、無限にあり、どの情報が正しいのかを判断することは簡単ではない。ひとつのことについても、立場が違えば、そして、国や文化が違えば、情報もそれだけ違う。情報の内容を吟味する目を養い、客観的に判断する力を付け、そして、自分なりの見解を築いていく。
今日(20日)は、10年生は学校に出てきて、来週の旅の予定を組み、役割を決めました。Identityのことについてもディスカッションし、大いに意見が発揮され、旅に出る心構えを整えました。
昼食時に、一人の男子生徒が、「お母さん、僕を産んでくれてありがとう!」と言っていた言葉がとても印象的でした。