Cowra 1
投稿日:2011年5月1日
旅の4日目
今日は、カウラへの移動日。
例年は非常に乾いている周りの景色が、今年は、緑に覆われていました。大地だけでなく、人間にも命が戻るように感じられます。
67年前にカウラに捕虜として移送された日本の兵隊さんたちが目にしたのは、乾いた景色だったいうことですので、その頃も、干ばつが続いていたのかもしれません。こんな緑があれば、心の中の殺伐さは多少なりとも違ったのでしょうか・・・ 兵隊さんたちの脳裏には、どんなことをあったのでしょう。
2時間半で到着。
まず、インフォメーション・センターに。収容所のハットを復元した小屋の中で、カウラにおける日本兵の脱走の様子をホログラムで学習してから、日本庭園へと向かいました。
日本庭園は、まさに砂漠のオアシスのように、そこだけが別な空間を作っています。この庭園の緑を維持するには、恐ろしい量の水を必要とします。干ばつで家では水を自由に使えなくても、カウラ市民は、この庭に使う水は惜しみません。
そんな市民の善意に支えられてこの庭園は存在しています。そして、逆に、この庭園がカウラを平和の象徴とする極めて特異な町とし、観光による町の一大資源ともなっています。
それを証明するかのように、カウラは、国連の平和の鐘が南半球で唯一置かれているところです。
Don Kibbler(キブラー)さんという方がいらっしゃいます。庭園の管理委員会の会長をされていて、戦後の日豪の友好関係を築くために大変尽力された方です。この方に、庭園内でお話いただく予定だったのですが、緊急の手術をされ、私たちに会ってくださるような状態ではありませんので、お話はキャンセルとなりました。
日本庭園で地震と津波の被害の募金活動をしてもよいという許可は取り付けていたのですが、週日であり、観光客もたくさんはいないので、結局、ここでは募金活動をするのはとりやめにしました。
明日の用意をするために、宿舎にと向かいました。キャンベラのユースホステルは、一部の生徒たちには不評でしたので、「今度のホテルは、もっと居心地のよいところがいい」という期待が高まっていました。
カウラで私たちが毎年泊るところは、キャラバンパークです。泊るところは、キャラバンかモーテルしか存在せず、調理ができるモーテルはありません。キャラバンは慣れると、泊りやすい場所です。
さて、ここがそのキャラバンパークというところに着いて、男子全員がひとつの部屋、それもベッドが並んでいるだけということが分かったときの数名の嘆きよう! 全員が一部屋ということは最初からわかっていたことなのですが、トイレもシャワーも外回りの隣りの部屋という状態は、とうてい受け入れられないというものだったのでしょう。さらに、女子は、トイレ、シャワー、食器や冷蔵庫の整ったキッチンが付いたキャビンであることがわかると、その嘆きの声は、さらに大きく。 (困ったな・・・)
バンクハウスと呼ばれるこのベッドだけが並ぶ部屋に宿泊するのは、今年初めてのことなのですが、Easterの休暇と重なっている週であり、旅する人が多いのでしょう、キャビンが全部ふさがっているということで、替えてあげたくても、この大部屋しか泊れるところはないのです。
その興奮というか、落胆というか、それが少し鎮まったところで、明日の準備。
先日、シドニーのショッピングモールで買い物客に書いていただいたメッセージにまだ邦訳が付けてないので、それを完成すること。そして、’Waltzing Matilda’を歌えるようにすることが準備です。
Waltzing Matildaは、オーストラリアの最も有名な民謡です。1890年~1930年代はオーストラリアの大恐慌の時代であり、その頃には、大きな羊農場で羊の毛を刈り、農場から農場に渡り歩いて生活する人々(swagmanスワグマン)がたくさんいました。その人たちは、わずかな生活必需品が入った袋(swag)を背中に背負っているのですが、その袋をMatilda(マチルダという女の人の名前)という愛称で呼ぶようになります。Waltzing Matildaは、その袋を持って歩く様子を意味します。
メロディは、オーストラリアにいればどこでも耳にするものです。生徒たちも学校で何度か聞いたことがあり、ANZACの式典でも、二度にわたって軍のバンドが演奏していました。それほどに、ポピュラーな歌です。
歌の内容は、スワグマンが湖のほとりでお茶のお湯をわかしていると羊が現れたので、喜んで捕まえて食料袋に押し込めた。そこに警官が来て自分が逮捕されそうになったので、自由を奪われる代わりに、池に飛び込んで死んでしまった、という哀しいものです。オーストラリアの人々の郷愁にピタッと来るものがあるのでしょう。
シドニーを出る前から準備していてくれたケイスケ君がiPodから曲を流し、生徒たちは、すぐに上手に歌えるようになりました。いつか世界のどこかでオーストラリア人と出会ってこの歌を一緒に歌ったら、きっとすぐに友だちになれることでしょう。