可能性の所有権
投稿日:2011年5月27日
オーストラリアで非常に興味深い判決が下された裁判がありました。
事故で亡くなった夫の精子は、自分がIVFで使う権利がある、というある女性の主張を認めたものです。オーストラリアでは、故人の精子は、本人が署名した宣誓書が無い限り、誰も使用することを認めていません。このケースは、生存中にIVFの治療を受けていて、夫婦が子供を持つことを望んでいたことから、夫の宣誓書がなくても、生前中にすでに保管されていた精子を使うことに故人の依存はないものと認めての判断だということでした。
このことについて、ラジオのトークショーなどで、喧々諤々の議論が起こっています。その気持ちはわかるというものから、あまりにも身勝手な行動と真っ向から批難するもの、神への冒涜だと一蹴するものまで、様々な角度と立場からの反応は、この判決が如何に人々を刺激するものであるかを物語っています。何よりも、本来女性が自分だけでは持てない新しい命を誕生させる可能性を所有することになる、という概念をどう受け止めればいいのか・・・
医学が進んだばかりに起ってくる新しいタイプの議論ですが、何が問題となるのか、何が正しいのか、それを考えるパラダイムをどこに置くのか、といったことを真剣に考えなければならない倫理上の問題は、これに限らず、すでにたくさん起きています。ややこしい世の中に変わりつつあります。
ちょうど、この判決が出たという時に、お父上の49日のご法要を終え、積丹半島の美しいでも厳しい自然の中で生命について、そして、死について瞑想されていらした方からお便りをいただきました。東日本の震災やアメリカの竜巻の生々しい傷跡の中で毎日命と死に向き合ってみえる被災された皆さんへの想いと重なります。そんな折、「チベットの死者の本(邦訳は定かではありません)」というドキュメンタリーがありました。もともとは、”The Tibetan book of the Dead”という原書を元に、NHKのドキュメンタリーとして制作されたもののようです。
死は生命の一部であり、生きていることの中に死の概念を上手に取り込んでいくことで、死への恐怖もなくなり、そして、生を謳歌し、死者の魂は、また、形を替えて存在し続けるという仏教の教えの中に日々の生活を重ねているチベットの村の人々の表情は、とても明るく豊かに見えました。厳しい自然条件であっても、物が豊かになくても、豊富な物にまだ蝕まれていないからこそ、こういう豊かな精神生活を送ることができるのではないかと思いました。
震災のように、死が突然に襲ってきた時には、残された人々は、それに対してどう向き合ってみえるのでしょう・・・・
震災から、いつのまにか49日を超え、もうそろそろ2ヵ月半になります。ご家族やご親戚を亡くされた方々には、こんな言い方をしたらとても残酷で無礼なのかもしれませんが、でも、命を落とされた方々の魂が、浄土であれ、不老不死の世界であれ、宗教によって名前や概念が違っても、苦しみのない世界に移られてみえることを祈るばかりです。
二重になった珍しい虹です。この虹は、5月22日にビクトリア州でかかったものです。右側の虹は、本当にくっきりと空いっぱいに広がっていました。
この日に何か願い事をした人、この日にお誕生日を迎えた人、この日に何か特別なことをした人、この世のすべての人々に、この虹が夢を運ぶものであったことを願っています。
(Photo by Ms. Umei)