満月との旅
投稿日:2011年8月16日
8月13日の夜明け前の空は、煌々と輝いていました。
前夜の見事な満月の残照で、まわりの景色が見えるほどの明るさです。
こんなふうに夜中じゅう地球を照らしていたのだと思うと、やわらかい光に包まれていることにありがたさを感じました。
地平線まで見えます。目の前に座っている月があまりにも近く、あまりにも見事なので、それに導かれて、まるで天に向かって運転している気分になることもありました。
静寂と自然の美しさに囲まれた中で考えていたのは、「選択」ということです。
人間は、みな、毎日、いろいろな選択を余儀なくされています。選択していることを意識することもあれば、意識しないこともあります。でも、確実に私たちは、毎日、たくさんの選択をしています。
ひとつの選択が別の状況を作り出し、また次の選択にと続いていきます。そのたびに私たちは、考えることもあれば、真剣に悩むこともあり、また、単に反応するだけで済ませてしまうこともあります。
選択は、自分ができる場合もあれば、やむなく、別のところからの事情で、思いを断ち切り、別の意識の選択を余儀なくされることもあります。
新しい道の可能性が目の前に出てきたときには、それが自分の将来とどう関係するのか、その道を選ぶのがいいのか、別の道を選ぶほうがいいのか、意識の決定を迫られることもあります。
その選択の結果は、何を選択するかで、個人のその先を別なものとします。個人だけでなく、周りの人々にも多分に影響します。
(これを書いています今(2日後の午前6時)、うぐいすが鳴いているのが聞こえてきました。オーストラリアでうぐいすの鳴き声を耳にするのは初めてです。なんて、なつかしい、そして、優しい響きでしょう! Nightingaleという英語の美しい名前があるのですから、当然存在するのでしょうが、なぜか、うぐいすは日本のものみたいな感覚をいつの間にか自分がそなえてしまっていたことに気付きました。それにしても、なんてかわいい情緒のある鳴き声なのでしょう。)
ICETのような組織の決定は、もちろん、多数の人々に影響し、その後の、選択にもまた影響を及ぼします。たくさんの若者の命と将来の可能性の開花を預かる機関ゆえに、常に最善の注意が要求されます。しかしながら、その中でも、予知できなかったことに遭遇することもあります。起ったところで最善の処置を施していくしかないのですが、そこには、また新たな選択が続きます。
良かれとしたことであっても、結果的には、心理的な負担を生んでしまうこともあります。
応急処置をした場合には、所詮、応急処置は応急処置でしかなかったことをずっと後になってから学ぶこともあります。その場合には、そこから学ぶものが以前の数倍、数十倍の価値として生まれ代わるようそれ以前の何倍もの努力が必要になります。そして、時間がかかろうが、克服する困難があろうが、「本物」「本質」「本来あるべき姿」を最初から求める姿勢の重要性を痛い教訓から学ぶしかありません。
子供たちも、私たちも、12月までの時間、毎日、選択を繰り返していきます。選択の中には、自ら会話に入るかどうか、英語を使うか日本語を使うか、その場ではたいしたことがないような小さな選択もあります。でも、この選択の積み重ねがあるかないかは、12月に、大きな結果の違いとなってきます。
大学の選択、来年の道の選択、といったその後を大きく影響する「選択」に向かいあっている生徒もいます。今後の4ヶ月をどう過ごすのか、意思決定を迫られている生徒もいます。
では、私自身の選択は・・・ 生徒の将来にどれだけのメリット(精神面と学習面)を生み出せるか、どうやって最善の環境を作ることができるか、そこに軸を置き、その中で、何を生徒に伝え、何を一緒に学習するかを考え、そのひとつひとつに持てる誠意のすべてを注ぎ込むことが、私の責任であり、それが私の選択であるべき・・・
そんなことを考えているうちに、バックミラーには、白い線から始まり、淡い青やピンク、そのうちに、オレンジ色や朱が混じった空が広がり、やがて、大きな太陽が眩しい光を放ちながら地平線の上に姿を現してきました。
その荘厳な輝きに後ろから押されるように感じながらスワンヒルに向かう朝の平原の風景は、静寂そのものでした。