ホロコースト記念館訪問の記 (4)
投稿日:2011年9月5日
ホロコースト記念館を訪れて
8月31日にシャープペンを持って机に向かうと、少年時代の宿題を思い出してしまう。机の引き出しを開けて「ドラえもんがいたらなあ」と本気で願っていた。
当時書かねばならなかった読書感想文は夜10時をすぎても「僕は、」から一向に原稿用紙が埋まらなかったものである。だが、あの頃から30年経った8月31日の僕は沢山書きたいことがあるのだ。
それは「パンドラの箱」である。ギリシャ神話において大神ゼウスが天界から火を盗んだ人間に対して戒めのために贈った箱だ。
「明けてはいけない」と言われた禁を破って開けられた箱からは、憎悪。戦い、苦しみ、嘆き・・・等ありとあらゆる災厄が飛び出し世界中に広まってしまった。
そして最後に箱に残っていたもの、それは「希望」だった。
恥ずかしながら僕はホロコーストについて、ほとんど知らなかった。アウシュビッツ、ユダヤ人虐殺、ガス室、その程度の知識である。
だからホロコースト記念館と聞くと陰惨な展示と同情の涙を想像していた。しかし世の常であるように想像と印象は大きく違っていた。最も印象深く心に残った物は子ども達が描いた絵や詩である。まず絵の色使いにおどろかされた。意外な明るい色、大胆な筆使い、とても死と隣り合わせの状況を強いられている人が描いたものとは思えない物だった。
そして詩から感じられる強さ、強さ、強さ。
それらの展示物はまさに「パンドラの箱」に残っていた「希望」をたずさえていると感じた。 では・・・・希望とは何か?
彼らはあきらめなかったのだと思う。僕は自分の子ども達に、よく言う言葉がある。
「人はあきらまた時に自由を失うんやで」
とよく話す。何をあきらめてはいけないかというと、活きる事をである。生きることではなく、活きること。なぜならば、活きていれば自分で道を見つけ、選ぶことができるからだと思っていた。思っていた?そう過去形なのだ。「活きる」とはどういうことか・という問いに、いまひとつ明快な答えを持っていなかったからだ。しかし今は違う。
活きるとは、自分やそれ以外の誰かのために、目標や望みを持って行動する事と、なんとなく考えていた。が、まてよ、それは希望の事ではないのかと、彼らの絵や詩を見て思った。活きるとは希望を持ち続ける事。希望とは活きる事と。
彼らはあきらめなかった。決して活きることをあきらめなかった。
そして時代を超えて自由を手にしたのではなかろうか。
「このような行いを二度とくりかえしてはいけない」と叫ぶ自由を。
今の時代に居る僕たちも決してあきらめてはいけないと思う。血を伴って時代を超えての彼らの叫びを、次の時代に受け継ぐことを決してあきらめてはいけないと思う。
人間は陰惨な一面を持ち合わせている事は否定できない。だが、私たちがあきらめなければ、遠い未来かもしれないが必ずや希望はかなうはずだ。では何を希望するのか。
それは
人間がおたがい仲良く平和に暮らせる事であると想った。
平成23年8月31日 21時52分~23時15分記す
頭 巾 喜 和