賞状
投稿日:2011年11月21日
1年目の全員の生徒が、賞状と認定書がたっぷりと詰まったフォルダーを持って帰ります。
そこには、今年1年彼らがしてきた活動の歴史が詰まっています。
そのひとつひとつに、違う文化の中で生活してきた彼らの日々の体験が詰まっています。
先日、卒業生からおもしろい質問が届きました。「異文化教育」についての卒業論文を用意しているので、ついては、オーストラリアの先生たちがどういう異文化教育を受けてきているのかを知りたい、というものでした。
そもそも、英語には、「異文化教育」という言葉が存在しません。存在するとすれば、「違いを尊重する」という概念だけです。
様々な民族や文化が混合する歴史を持つところでは、異文化教育なるものはなく、支配するかされるかを繰り返し、熾烈な市民戦争や大戦を体験し、「民主化」の中で、ようやく、「共存」「互いを尊重する」というところに至っています。
今でも、世界の至るところで、支配の取り合いが暴力という形を通して起っています。「異文化教育」なるものは、日本ならではの発想なのかもしれませんが、でも、概念で理解しようとするとても高尚なものだと思います。
オーストラリアのように、隣の家も、そのまた隣も、国籍も文化も違う、同じ家族の中にも、いくつもの文化があり言語があれば、いながらにして「異文化教育」は行われています。
’Respect’ というのが、根本にある精神です。異文化、異民族だからというのではなく、家族のそれぞれに対して、大人も子供もみな互いにrespectすることで、広い世界にその精神を適用することができます。
オーストラリアに日本から留学してくる若者たちは、この地の文化に浸り、いながらいにして、「異文化」を体験することになります。
では、その体験が、理解に結びつくかというと、答えは、YesでもありNoでもあります。文化を理解するということは、簡単ではないからです。
簡単に新しい文化に飛び込み、そこでの体験を体全体に浴びる子供もいます。でも、15歳まで育った文化は、体に、心に染み付いているので、違うものに触れた瞬間に、カチッとその中に閉じこもるための壁を作る子供もいます。
日本人と意識し始めた瞬間から、「日本」から解放できなくなる自分を見出す生徒は、そのために日本人から離れることができず、英語の学習も、体でするのではなく、頭の知識だけでのことになります。
体で文化を吸収する子供たちは、言葉も五感の全部、心の全部を使って、文化の中の言語として捉えていきます。頭のだけの知識は、英語もたんなる教科の勉強でしかなく、そうなると、実際の道具としての言語ではないわけです。
文化に溶け込むことができない、文化を吸収できないから、英語というこの地の言語もなかなか上達しない。その結果、「日本人がおおぜいいるから英語が上手にならない」ということになるのでしょう。それは、とりもなおさず、「日本の文化」から抜け出すことがそれだけ難しいということなのだと思います。オーストラリア人をバカにし、文化をバカにする子供もそれだけの伸びが期待できないのは、ある意味当然です。
上手になる子は、日本人が周りにいようがいまいが、本当に上手になります。頭でなく、体で習得しているからです。そして、自分の周りに「日本」という文化の壁を作らないからです。
留学の成功の度合いは、実は、この文化の融合ではないかと私は思います。すべて同調するという意味ではまったくありません。すでにもっている日本のすばらしい文化の上に、どれだけ新しい文化、新しい考え方、新しいやり方を付加することができるか、同時に、日本の文化をどれだけ伝えていくことができるか、という意味での融合です。それがあって始めてその言語が活きてきます。
この1年間、ICETで生徒たちが体験することは、「文化の体験」です。学習課程における活動は、すべてに意味があります。できるだけ多くの機会に「文化」を体験することを通して、文化の理解の一端につながっていくことが大事です。
だから、賞状や認定書の詰まったフォルダーは、彼らの文化体験の軌跡でもあります。
帰国した生徒が感じることのひとつに、帰国当初の数日は英雄扱いであっても、すぐに話すことがなくなってしまうというものがあるようです。
会話がなくなったら、このフォルダーを開き、その体験がどんなものであったのか、そこからオーストラリアの文化の何を感じ取ったのか、自分が日本のどんなものを残すことができたのか、自分の中に何が残ったのか・・・ そんな質問をぶつけてみてください。
生徒にとっては、留学の成果について、改めて、自分の成長を見つめなおす機会にもなりましょう。