Malalaの闘い

投稿日:2012年10月13日

Malala Yousafzai という14歳の少女が銃弾で頭を撃たれました。

Yousafzaiという名前が読めないので、ここでは、マラーラという少女の名前だけを使います。場所は、アフガニスタン。たまたま紛争中の事故で起こったことではなく、彼女は、その志、夢、信念、それを実現するための活動のために意図的な抹殺の対象となったのです。

 御存知のように、アフガニスタンでは女児が教育を受けることがタリバンの人々の考え方によって阻害されてきました。オサマビンラーデンの姿を追ってアフガニスタン戦争が始まって以来、泥沼化した戦争になっていますが、その中で建設的な結果として捉えられるのは、女子への教育が促進し始めたことです。

Malalaは、教育者であり詩人であるお父さんからの影響を大きく受けたようです。弟たちと夜遅くまで政治談議をすることを許されたということなので、それだけでも、お父さんが相当にリベラルな考え方を持った人だったのでしょう。2009年に英国のBBS放送に投稿をしたことがきっかけで、世界にアフガニスタンの現状を少女の目を通して訴え始めることになりました。

去年、国際平和青年賞を受賞しています。将来は、政治家になってこの国を変えたいと言っていた少女。彼女のインタビューをラジオで聞きましたが、すでに「殺すぞ」という脅迫を受けていた彼女は、きれいな英語で、「私の身はどうなってもいい。この国の教育が変わり、女性が教育を受けることができるようになるのであれば」と訴えていました。

学校からの帰りのバスの中で、彼女は撃たれました。学校に通って教育を受けているからという理由で。アフガニスタンの現状をしゃべりすぎるという理由で。でも、幸い命に別状はなく、世界の多くの人々が今彼女の志を支援しようとしています。

14歳で大志のために命をかけることができるなんて・・・・

同じ日に、ヨーロッパ経済共同体がノーベル平和賞を受賞しました。政治的意図がありすぎるという批判はあるものの、ヨーロッパに平和的秩序をもたらしていることは大きな意味があるということです。第一次、第二次と恐怖の時代、地獄を見てきたヨーロッパの人々が、二度とそういうことが無いようにとドイツとフランスが経済共同体となったことがEUの起源となったということですが、すばらしい知恵がそこにはあったのですね。

地獄を見たのは日本も同じです。

 日本と中国、日本と韓国も、本当は切っても切れないはずの国です。互恵の経済発展は将来に大きく続くはずではなかったのでしょうか。そうした観点から見解を述べた中国大使は、即刻政府に罷免されてしまいました。ひとつの島を囲んで、ふたつの大国が話しもろくにできないという状態は、「政治」「国家」というものの難しさを感じさせます。民間の人々が経済を通じての交流を一生懸命促進させていることが、ドイツとフランスのような政治的な困難を排除する唯一の方法なのかもしれません。

留学生という個人のレベルでも同じことです。互いを許容するところには、必ず良い関係、互恵の切磋琢磨、一丸の発展があります。相手を攻撃し、批判し、拒絶するところには、亀裂と摩擦しか生まれません。自国の文化の優越性ばかりを唱えているようでは、異文化理解などは生まれようはずもなく、違う文化を受け入れることができなければ共生は程遠いものとなるでしょう。個々人の間も同じことです。

 人々が互恵の中で、一緒に幸を求めることは、如何に難しいことなのでしょう。でも、EUの精神に見習ったら、不可能を可能に変えることもできるのです。

 

 

 

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