優等生・劣等生って実在するもの?
投稿日:2013年1月17日
優等生とか劣等生、そんなものが実際に存在するのでしょうか?
今日、たまたまおもしろい議論をする場面がありました。「優等生」「劣等生」という意識がなぜ人々の中に浸透しまうのか、一体、誰が決めることなのか? 何を基準にして決めるのか、という議論です。
こんな議論が起こったのは、日経ビジネス欄に、「根拠のない自信を持っている人」という記事があり、それに関して話している際に、逆に、学生の中だけでなく、大人の中にもすばらしいことをたくさんしているのに自信がなかったり自分はダメだと思っている人がけっこう多いのはなぜだろうということからでした。この観念は、不思議なことにオーストラリアの人たちよりも、比較にならないほどの多さで日本人の子どもたちや大人に見られます。
実際に、優等生とか劣等生とか実在するのでしょうか? それは、先生が、他の生徒たちが、親御さんたちが、そして、あなた自身がそう思い込んだ像に過ぎないのではないですか? 成績がいいから、みんながそう言うから、そのように扱われるから、ということからそういう印象を持つのですよね。では、優等生とはどういうものか、何が優秀なのかと問えば、単に、学習の成績がいい、ということしか出てこないのではないでしょうか? そうそう、そこに、きちんとしたふるまいができる、というプラスがありますね。
音楽に秀でていても、数学や国語ができないと、「優等生」とは言われません。スポーツに秀でていても、五教科に秀でていないと、「優等生」とは評価されません。五教科に秀で、ふるまいが良いと、スポーツができなくても、音楽に優れていなくとも、「優等生」として扱われますでしょう?
なにか、へんではないですか? 誰が決めるのでしょう?
教育システムの中で、いつの間にかそう思い込まされてしまっているだけのことです。そのシステムを通る人間の全員が - 学校経営者も、先生たちも、保護者たちも、生徒たちも - そのシステムの中においてテストという基準のみで学習したことを測るために、そして、それしかものさしが無いために、学習したことを記憶し、その記憶を呼び起こすことを測定した数値が高ければ優秀、低ければダメと、いつの間にか誰もが思うようになってしまったのです。そして、みんなが集合的にそれに反応するから、中学校・高校・大学と受験は点数で競うようになり、点数が高い生徒が入る学校が良い学校と判断され、だから、そこに入る生徒も優秀と判定される、ということです。
人間はみな優等生で、同時に、みな劣等生です。優等になる部分と劣等になる部分が違うだけのこと。完璧な人間はなく、みな、たくさんのいいところがあり、たくさん足りないところがあるのと同じことです。すべてのことに秀でている人間は存在するかもしれません。でも、アインシュタインだって学校を途中で中退しました。誰かは芸術に秀でている。誰かは人を笑わせ喜ばせることに秀でている。対人関係に秀でる人もいる。論理性に秀でる人もいる。人の感情を理解することに秀でている人もいる。すべてのことでなくても、人間はみな何かに秀でています。その秀でていることを誇ったらいいのです。
学校教育は、テスト、成績という基準しかないから、物事をそのまま記憶し、そのままその記憶を紙の上に呼び出せる人だけが優等生となる。あるいは、競争の結果でしか人を測ることをしないから、優劣が出てくるわけです。
オーストラリア人は、この「根拠のない自信を持っている」人がとても多い印象を受けます。それがどういうふうに出るかというと、キラキラしているのです。輝いているのです。生き生きしているのです。
その理由は多分、教科の成績だけでなく、生徒一人一人が何ができるか、何をするか、地域社会にどんな貢献をするか、どんな人たちと友達になっているか、人に対してフレンドリーか、礼儀正しいか、前向きな姿勢を持っているか、笑顔で接するか、責任を持って物事を遂行するか、取り組むことに一生懸命か、授業中に真剣に参加しているか、自分らしく生きているか、信頼が置けるか、といったいろいろな要素によって、その生徒の存在感が尊重されるからなのでしょう。
人間には、いろいろな才能と能力があります。エドワード・ガードナーという学者が、「マルティプル・インテリジェンス」という言葉で、人間が持ついろいろな才能・知性を説明しています。詳しいことはまたお話する機会があるでしょう。
留学してくる生徒の皆さんには、もし、否定的なイメージを自分に持っているのであれば、それは、全部、日本に置いてきてくださいネ。肯定的なイメージは、たくさん持ってきてください。シドニーに着いたら、色のついていないメガネで自分を見て、自分が持っているすばらしい才能、能力、魅力をたくさん見つけましょう。たくさんすばらしい発見をしましょうね。
「根拠のない自信を持っている人」っていうのは、こうした社会やシステムや他人が決めたものさしで測られた自分ではなく、自分が好きな自分を知っている人なのでしょう。
2013年1月18日
房枝先生、こんばんは。いつもドキドキしながら、20年前と変わらぬ情熱を持ち続け、更に進化し続ける先生が安易に想像できる機会とばかりに、拝読させて頂いています。
さて、私にとって16年半振りの日本在住も半年を過ぎました。
今の若者はとにかく、賢い!と感じます。ただ、その賢さを発揮出来る場を私たち大人世代が十分に用意出来ていないという情けない現状を目の当たりにする日々です。
出来るだけこれから、老若男女問わず、交流の場を創って行くお手伝いがここなら出来そうだと想えた会社に入りました。
私は豪州在住期間中、ずっと自分が生活、気持ち、状況、言葉、伝え方(特に英語)、人間関係に困った時、漢字を眺めていました。
例えば自信。
自ら人の言うことを信じる、信じたい甘えている自分が居る、という風に解釈してみたりしました。一旦、落ち込むのですが、落ち込めば落ち込む程、自分の気持ち一点に集中しやすかったです。
結果的に自信と自負の違いは、自分の努力をちゃんと自分自身が見てきたじゃないか!誰も知らなくても自分が知ってるじゃないか!と自分が感じられることを素直に信じたいと想えるようになったことが一番の収穫で今でも財産のひとつです。
きっと、それまでは他人(自分以外の人間)が自分の努力を見て知ってくれて評価してくれて初めて『自信を持っていい』と周りの存在を当てにしてた本人の勝手な自分に好都合な思い込みという名の甘えだったのでしょう。
私が30年近く掛かって得た自分なりの解釈がこれからの世代には一日でも速く実感を伴い、知って欲しいなと切に願ってます、留学という親元をその年齢で選択したのですから、Max生かして頂きたいです。
先生、くれぐれもご自愛下さい。4月半ばあたりには里帰りを企んでおります(笑)。
2013年1月18日
房枝先生、こんばんは。いつもドキドキしながら、20年前と変わらぬ情熱を持ち続け、更に進化し続ける先生が安易に想像できる機会とばかりに、毎日拝読させて頂いております。
さて、私にとって16年半振りの日本在住も半年を過ぎました。
今の若者はとにかく、賢い!と感じます。ただ、その賢さを発揮出来る場を私たち大人世代が十分に用意出来ていないという情けない現状を目の当たりにする日々です。なのでずる賢くなる以外、逃げ道のない閉塞感を感じます。理由は大人が若年層を一人間扱いするだけの知識と教養・技術のなさ故に、未来を担う若者たちへの支援が困難なのでは?と私の目には映ってしまいがちです。
二週間前、出来るだけこれから、老若男女問わず、交流の場を創って行くお手伝いがここなら出来そうだと想えた会社に勤務し始めました。半年待った甲斐がありました。
ところで、私は豪州在住期間中、ずっと自分が生活、気持ち、状況、言葉、伝え方(特に英語)、人間関係に困った時、漢字を眺めていました。
例えば自信。
自ら人の言うことを信じる、信じたい甘えている自分が居る、という風に解釈してみたりしました。一旦、落ち込むのですが、落ち込めば落ち込む程、自分の気持ち一点に集中しやすかったです。
結果的に自信と自負の違いは、自分の努力をちゃんと自分自身が見てきたじゃないか!誰も知らなくても自分が知ってるじゃないか!と自分が感じられることを素直に信じたいと想えるようになったことが自負であり、自信とは異なり自分なりに手に入れることが出来ると今は思っています。
きっと、それまでは他人(自分以外の人間)が自分の努力を見て知ってくれて評価してくれて初めて『自信を持っていい』と周りの存在を当てにしてた本人の勝手な自分に好都合な思い込みという名の甘えだったかと反省しています、自分の人生の全ての選択は自己責任なのだろうと。
私が30年近く掛かって得た自分なりの解釈がこれからの世代には一日でも速く実感を伴い、知って欲しいなと切に願ってます、留学という親元をその年齢で選択したのですから、Max生かして頂きたいです。
先生、くれぐれもご自愛下さい。4月半ばあたりには里帰りを企んでおります(笑)。
2013年1月19日
コメント、ありがとう。
そう、自信って、きっと見方ひとつのことなのでしょうね。その捉え方で、毎日のときめき度が違い、物事に向かう姿勢が違い、次のステップに進む背中を押してくれる強さが違ってくるのですよね。
いろいろ考え、悩み、そして、模索するのは、ちょうど、種が土の中で発芽を待つのと同じ。暗さと適度の湿り気があって、やがて、土の中から出てくれば、今度は、太陽のさんさんとした光の中で、その種だけの、その芽だけが持つ魅力を花として咲かせることができますものね。それが、人々に感動を与えるものとなる・・・
模索し、待つ時間があるからこそ、いい花が開く。
ありがとう。