自分を大事にすることの意味(4)
投稿日:2013年10月13日
留学のどんなことが自分と向き合う体験をもたらすのでしょうか。
留学のすべての面、といっても言い過ぎではありません。
自分と向き合うということは、ただ、考えるということではありません。比較するということでもありません。自分を客観的に眺めるだけのことでもありません。
自分と向き合うということは、いいこと、辛いこと、悲しいこと、怖いこと、見たくないこと、知りたくないこと、心の奥に深く閉じ込めていたこと、無視したいこと、意識していることもあるでしょうし、無意識に抱えていることもあるでしょうが、自分が持っているものすべてに、勇気を持って向き合うということです。
”Who looks outside, dreams; who looks inside, awakes.”
~ Carl G. Jung ~
「外界に目を向けるものは夢を見る。内面に目を向けるものは覚醒する」 ー スイスの心理学者、精神科医カール ユングの言葉です。
留学してきた生徒たちは、内面を見ざるを得なくなります。いろいろなことを発見します。認識します。再認識します。いろいろなことに疑問を持ちます。比較します。自分のそれまでの価値観に照らし合わせます。自分が誰なのか自分のアイデンティティを本気で探ります。15歳、16歳という年齢は、ちょうど、本格的な自立にかかる時期でもあるのでなおさらの事、自分が誰か、自分を作っているものは何なのか、自分はどんな人間なのか、何のために生まれてきたのか、存在する意味は何なのか、と、まるでフランスの実存主義の哲学者のようなことを考えていかなければなりません。
ここに、留学を通しての、すばらしい成長があるのです。
その成長の度合いは、みな、違います。逃げたいことからも逃げずに、向き合うということは、とても大変なことです。大人だって、簡単にできることではありません。
逆に言えば、この年齢だからこそ、新しい環境でそれをしやすのかもしれません。
それまでの生い立ち、育った環境、家庭や地方の文化、持っている資質、性格、親御さんの考え方、価値観、意識の持ちようなどにより、どこまで自分と向き合うかは、みな方法も違えば、深さも違います。恐怖をどれだけ拭えるか、勇気の持ち具合も、大きく関係します。そういうことへの関心の強さも関係します。1年間でものすごい旅を遂げる生徒もいます。自分を見つめる入り口で立ち止まったままの生徒もいます。
どれもみな、それでいいのです。なぜならば、それが、その時のその生徒のベストだからです。大事なことは、この1年の体験が、留学中に、その後に人生においていつどういう形で出てくるかはわからないけれど、必ず、なんらかの精神的な変化をもたらすものとなることを高校生の時点で認識すれば、その後の人生において、常に、自分が意識を高める生活を送るようになる、ということです。
内面を見つめることは、自分自身だけの作業のように思えますが、最初は、周りの人々との交わりが大きな役目を果たします。そこは、目に見えることなので、わかりやすい部分です。
例えば、「郷に入れば郷に従え」ということわざがあります。あえてオーストラリアという遠い国まで来たからには、そこで学べるものを学ぶつもりで来ているはずです。「こんなことは日本ではしない。だから、自分は日本でのやり方を通す」というものひとつですが、その姿勢だと、そうか、日本とは違うやり方があるのだ、ということで終わります。違うやり方で自分もやってみようというもう一歩先は開拓しないまま終わります。そこからもっと開くかもしれない可能性を自ら閉じることになります。
たとえば、こちらの文化は、小さな頃から、子供たちに”Thank you”ということを徹底して仕付けます。それも単に、Thank youだけでなく、何に対してのありがとうなのかを明確に述べます。 “Thank you for a delicious meal” というように。それを言われたら、ホストマムはそれだけで幸せです。ところが、9ヶ月経っても、”Thank you”という言葉すらも出てこない生徒がいて、ホストはそれを嘆きます。これは、ホストが感謝されていないと感じるだけでなく、その言葉を言えない貧しい心の人間と受け止められます。それは、自分への良い評価にはなりません。
人間は、生まれた時から模倣することで社会生活を学びます。親の模倣、家族の模倣、親戚の模倣、近所の人々の模倣、幼稚園や学校で出会う級友の模倣、先生の模倣、先輩の模倣などなど、すべて、模倣するところから始まります。模倣している間に、ありがたくないことまで覚えてしまうことは多々あります。そのうちに、模倣するだけではなく、見ることを反面教師としたり、あるいは、自分に合わせたアレンジをして取り入れるようになります。もっと高尚になれば、自分の中で消化したものを浄化し違う形に飛翔させることもできるようになります。
せっかくホストファミリーと生活するのですから、そこから学べるものはすべて吸収するくらいの意識と勢いを持つことが自分の成長に直結します。「ありがとう」を言うというのは、ひとつの例なのですが、生徒たちは、実際に「ありがとう」が言えません。自然に出てくる生徒はごくわずかです。言うのが礼儀と教わっても、この場合には言って頂戴とあえて言われても、まだ言えないのです。そういうことがまったく習慣化されていないということ以外に理由は考えられません。日本ではそれで通用したのかもしれません。でも、世界に出ていくためには、そして、自分がそれなりの評価を受けるためには、学びは、やはり、郷に入っては郷に従え、なのです。そこで、日本と異なる文化や風習を取り入れ、自在に使えるようになることが、自分を成長させることであり、自分を大事にするということにつながってきます(でも、それが良いことという認識さえできないとなると、そこは、また別の問題となります)。
留学の最初は、みな緊張していますから、すばらしく立派です。でも、それが付け焼き刃であれば、その化けの皮はすぐにはげます。人間は、自分が知っていることしかできないし、知らないものにはなれません。演じている間にそれが習慣化し、本物として身に付いていくものもありましょう。それは大いに結構。それが学びであり、成長です。でも、芝居を続けきれないのが大半です。そうなると、もとの惰性に戻ります。何度注意されても、これが私なんだから居直るのです。でも、そこで、これが自分を進化させる機会と思えば、そこにも成長が出てきます。
同じ事を何度も注意されない。これも自分を大事にすることに繋がります。ホストから、時々、「もう同じことを何度も言うのに疲れた」というコメントが入ることがあります。
こんな言い回しがあります。「一度目の注意は、知らないことから発したこと。二度目の注意はうっかりミス。三度目に注意されたら、それは愚か」
何度も何度も同じことを注意されるというのは、自分をまったく大事にしていない、ということの表れです。本当に自分を大事にしていたら、一度受けた注意は、二度と受けないようにするでしょう。これも、意識の問題です。
この続きは、またの機会に。