Australia Dayに因んで

投稿日:2014年1月26日

今日、126日はAustralia Day

全国で大きな行事や祝い事が展開されます。

首都キャンベラでは、各分野で活躍した人々の表彰が行われたり、政府主催の様々な行事があり、去年オーストラリアの市民権を得ようとした人々は、今日からオーストラリア人となります。

シドニー湾では、海軍の艦船が出たり、コンサートやダンス、様々な儀式がオペラハウスを中心に展開されています。

シドニーのビーチや地域の公園には、たくさんの人々が集まって、パンの上にソーセージを乗せたブレックファーストを食べたり、顔や手に国旗のマークを貼り付けたりします。

ICETの卒業生たちは、きっと、この日の光景をきっと懐かしく思い出していることでしょう。毎年、到着して最初の週末にこの日を迎えます。ホストファミリーとの鮮明な思い出がたくさん脳裏に残っていることでしょう。

Australia Dayとは、何の日でしょう?  

「オーストラリアというLucky Countryの住民であることを祝う日」

「オーストラリアの建国を祝う日」

「オーストラリアのmulticulturalの豊かさを祝う日」

「サバイバルの日」

「侵略が行われたことを呪う日」

と、見る人の立場によって、この日の意味はさまざまに違います。この日は、オーストラリアの歴史を物語る日です。わずか200年余ですが、その中にたくさんのできごとが凝縮されています。

 生徒たちには、ホストファミリーにとってはどんな日であるか尋ねてみるという宿題が出ています。

 この機会に、簡単に歴史に触れてみましょう。

 16世紀頃にヨーロッパで描かれた地図を見たことがありますか? そういう地図を見ると、今のオーストラリアはとても大きな土地で、南極を囲んで地球儀の下部を全部包むような形に描かれています。地図によっては、輪郭がはっきりしていないものもあります。

 実際には、4万年も前からたくさんの人々が暮らしていた土地なのですが、ヨーロッパの人々にそのことが知られてないから、想像的な存在として、Terra Australis incognita(テラ・アウストラリス・インコグニタ)という名前が付けられました。Terraというのはラテン語で‘土地’、Australisは‘南にある’、Incognitaは‘認識できない’‘知られていない’という意味です。これが、Australiaの名前の所以です。

 キャプテン・クック(James Cook)が1770年にオーストラリアの南東から東海岸沿いに探検し、初めてヨーロッパの地図にオーストラリアの東海岸線が実際のものとして記録されることになりました。その後、1801年にキャプテン・フリンダース(Matthew Flinders)が海岸線を一周し、オーストラリアの形が正確に地図に載るようになりました。

 ヨーロッパ人に知られる以前から住んでいた先住民の人々は総称してアボリジナルとかアボリジニーと呼ばれていますが、実際には、200以上に及ぶ言語があり、300以上の部族グループがあります。

現在に至るまでにいろいろなことがあり、白人社会にあって自分たちの独自の文化を失ってしまい、今は大半が、政府からの生活援助金を受け、白人支配社会の文化になかなかなじめないために、全般的に、‘アボリジニー’としてバカにされる扱いを受けています。

「アボリジニー」という単語は蔑称として受け止められるので、先住民の人々を呼ぶときには、Aboriginal people、そして、その文化を指すときにはAboriginal cultureという言葉を使いましょう。

 アボリジナルの人々の中には、非常に優れた灌漑・排水システムを持つ民族があったり、1万人に上る人口を養えるウナギの養殖をしていたコミュニティもありました。そして、アボリジナルの人々は、自然の中に住み、土地をとても大切に扱う人々でした。

そこにやってきたのが、ヨーロッパからの人々でした。

1788年にFirst Fleetと呼ばれる11隻の船団がシドニーのボタニー・ベイに入ってきました。これが、126日。それを記念して、この日が、オーストラリア建国の日として祝われています。

乗船していたのは、ほとんどが囚人でした。約780人。

その頃のイギリスはとても貧しい人が多く、泥棒や犯罪がたくさん発生していました。犯罪者を閉じ込める充分な場所がなく、新しく見つけたオーストラリアに送ることにしたのです。遠い南の地に流刑された人々の中には、パンを盗んだだけの人もいました。囚人の中には、イギリス人(大半)だけでなく、アイルランド人、スコットランド人なども含まれていました。

アボリジナルの人々は、彼らが自然の中で暮らすために合う決まりごとや法律を持っていました。そして、土地もそれぞれのコミュニティが自分たちの行動範囲とする土地を所有していました。でも、英国人たちは、ここはterra nullius((テラ・ヌリウス:誰もいないところ、誰にも所有されていない土地、あいているところ)と勝手にこの広大な土地を自分たちのものとしてしまったのです。

 北アメリカのインディアンや中南米のインデイオに起こったような悲惨な運命が、アボリジナルの人々にも待っていました。鉄砲なんて見たことも無い人たちが、銃弾で撃ち殺され、何の罪も無いのに、どこかからやって来た人たちに迫害を加えられたのです。たくさんのアボリジナルが殺され(タスマニアに住んでいたアボリジナルの人々は全滅)、生きている人たちは内陸部に追いやられ、それまで平和に住んでいた土地を新しく来た白人に取り上げられてしまったのです。

建国ではなく、「侵略の日」だというのは、この理由からです。

アボリジナルの人々の土地の所有権が問題として取り上げられたのは、なんとそれから200年以上も経った1992年のことです。Maboという名前で知られる最高裁判所の裁判で、この土地は、’誰にも所有されていなかった’のではなく、’アボリジナルの人々に属するものだった’という審判が下され、とても歴史的に重大な意味を持つできごととなりました。その結果、広大な土地がアボリジナルの人々に戻されました。

そのひとつが、エアーズロックという名で知られるあの巨大な岩です。現在は、Uluru(ウルル)という元の名に戻っています。

オーストラリアには’Stolen Generations’(奪われた世代)と呼ばれる人々がいます。1830年代から1960年代までの100年以上にかけて、オーストラリアでは、アボリジナルの子供たち、特に、ヨーロッパから来た白人とアボリジナルの女性との間に生まれた子供たちが、親から取り上げら、白人の家庭に里子に出されたり、特別の施設に入れられました。そういうことが政府によって強制的に行われました。

 その理由は、ヨーロッパ人のほうが優勢な民族で、アボリジナルは劣等な民族であるという白人の考え方があり、アボリジナルの文化を消し去り、白人の文化に同化させようとするものでした。政府の政策として行われたのは、1915年から1969年までですが、それ以前は教会などを通じて行われていたということです。

親から引き離された子供たちは、精神的な苦痛を負わされ、さらに、独自の伝統的な文化を学習する機会を奪われたのです。肌を白くするためにタワシでゴシゴシこすられたという話は、stolen generationsの人々に共通にある話しです。実際にこういうことを体験した人々に何人か会いました。

 この時代やこういう政府の政策があったことを表した「Rabbit Proof Fence」という映画があります。実話を映画にしたものです。

2008年に当時首相だったKevin Rudd(ラッド)氏が、豪政府を代表して、歴史上初めてアボリジナルの人々にその謝罪をしました。

以前、お父さんがシドニーのMacquarie大学でアボリジナル文化を教えてみえるホストファミリーがあり、その方もstolen generationでした。「自分は高い教育を受けることができたので、200年以上続いている人種間の対立を教育を通じて少しでも縮めることに生涯をかけたい」と語ってみえたことが印象的でした。

少し長くなりましたが、そんな背景がAustralia Dayの裏にはあります。オーストラリアの国家は、アボリジナルの人々を社会に溶け込ませようといろいろな政策を打ち出すのですが、先日の’「Utopia」のドキュメンタリーのように、その溝は、なかなかと埋まりません。

大半のオーストラリア人にとっては、この国にいることを幸せだと思う日なのですが、歴史とか文化というものは、どの角度から見るかで、如何様にも違ってきます。本当に不思議で複雑なものです。

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