ネイソンに捧ぐ - 人生を豊かにするものとは
投稿日:2010年6月11日
生徒たちの毎日は、とても忙しいです。学校の授業だけでなく、数多くの学校行事があり、参加するだけではなく、そこで活躍することが期待されています。留学生であってもICETの生徒たちは、学校の生徒会(SRCーStudent Representative Council)にメンバーとして参加する機会が与えられ、毎年数名の生徒たちが選ばれて活躍しています。昼休みなどを利用して自主活動でデイビッドソンの生徒や先生に日本語を教えている生徒たちもいます。Davidson High Schoolは、この地域の学校教育の中心的立場にあり、周辺の小学校から毎年選抜された優秀な子供たちが週1回10週間、高校生の指導の下にハイスクールで丸1日過ごします。小学校からハイスクールへの移行を容易にし、同時に、年齢の早い段階から学術的な刺激を与えることを目的としています。Enrichment Programと呼ばれているのですが、10回のうちの1回は、ICETの生徒たちが丸1日先生役を勤めます。オーストラリアの子供たちに日本の文化を紹介する絶好の機会でもあります。この時期に日本の文化に触れたことで、ハイスクールに入ってから日本語を学ぶようになる豪生徒の例が決して少なくない事実は、10歳前後における年齢での異文化に接する体験が如何にその後の人生の選択に大きなインパクトを与えるものとなるかがよくわかります。ICETの生徒たちの地域社会における文化貢献は、そうした面でも深い影響を残すものと言えます。同時に、ICETの生徒たちが、コミュニティの中にしっかりと根ざしているということでしょう。そうした忙しい日々の中で、6月29日に実施されるURAフォーラムの準備に向けて全員がここ1ヶ月余がんばってきています。このフォーラムについては、後日お知らせします。
6月4日がネイソンのお葬式でした。お葬式という言葉ではなく、ネイソンの「人生を称えて」(”Celebrating the life of Nathan Adam Cameron”)というのがタイトルで、町のはずれにあるGreen Shedと呼ばれる大きな教会で執り行われました。千人収容という会場に入りきれない数の人々が集まってきました。この数でネイソンがどれだけの人々に慕われていたかがわかります。ご家族の呼びかけで、多くの人々は所属するスポーツクラブのユニフォーム姿。彼が所属していたフットボールクラブのカラーは黒と黄色。ユニフォームの背番号21と彼のニックネームNatoとShortiesが描かれた横断幕が祭壇を飾り、その前に棺が置かれていました。式では、ネイソンの思い出が語られました。小学校時代からのお友達たち、親戚代表、フットボールのコーチ、専門学校の先生が、彼の幼少からの思い出を表現豊かに語り、いずれも彼の人柄を彷彿させるものでした。学校の勉強に馴染めなかった彼は、義務教育が終わる10年生の最後に両親から選択を迫られました。大学に進学するために11年生と12年生の勉学をするか、それとも社会に出て仕事をするか。彼が選択したのは仕事でした。宝石をデザインする専門学校に入学。そこで、彼は、頭角を現しました。彼のデザインは、地方大会で優勝したのみでなく、技術のオリンピックと言われる世界大会で、オーストラリア国内4位になりました。スポーツでの活躍、技能での活躍、でも、人々が一番賞賛したのは、人間としてのネイソンでした。いたずらで元気がよく、スポーツ大好き、楽しいこと大好き、何よりも与えることが大好き。茶目っ気に満ちた大きな笑顔、誰かが困っていればすぐに話しかけて慰めて助けようとする、悲しんでいる人がいれば一緒に悲しみ、そして、笑いに導く、チームの勝利に向けて一生懸命にバックアップをする、誰にも優しい言葉をかける、そうしたものすべてがネイソンが人々に与えてきたものです。千人を超える人々は、ネイソンから心に残る何かをもらい受けた人々なのでしょう。
こんな詩が詠まれました。
Do not stand at my grave and weep, ボクのお墓に立って涙を流さないで
I am not there, I do not sleep, ボクはそこにはいないよ。ボクは眠らない。
I am a thousand winds that blow, ボクは空を飛ぶ千の風
I am the diamond glints on snow, ボクは雪の中でキラキラ輝くダイアモンドの光
I am sunlight and rippened grain, ボクは日の光、実った穀物
I am the gentle autumn rain, ボクは秋の優しい雨
When you awake in the morning hush, あなたが朝の静寂の中で目覚めるとき
I am the swift up flinging rush, ボクは大急ぎでかけつけるよ
Of quiet birds circling flight, 静かな鳥になって輪を描くために
I am the soft star shine at night. ボクは夜の空にやわらかく輝く星
Do not stand at my grave and cry. ボクのお墓に立って泣かないで
I am not there, I did not die, ボクはそこにはいないのだから。ボクは死んではいない
For I am Nathan Adam Cameron. だって、ボクは、ネイソン・アダム・キャメロンなのだもの
亡くなった方の魂が自然の中のいろいろな物になって存在するという感覚は、洋の東西を問わず、同じものなのですね。数年前に私の母が亡くなりました。しばらく経って兄に会った際に、畑で土を起こしている兄のそばに真っ白な鶺鴒(セキレイ)が舞い降り、あたかも兄の顔を覘くかのように小さな首を振り振り、兄の後を追い、1時間近くもそこにいたのだそうです。兄は、言葉にならない感動を覚え、それが母の訪問であったことを悟ったということでした。ネイソンのこの詩が詠まれるのを聞いて、文化や宗教が違っても人間の根本はみな同じなのだと感慨をまた新たにしました。
棺が町の墓地に運ばれ、出席者の多くが墓地に移動しました。大きな墓地は、花で溢れていました。広い敷地に広がるどの墓石にも花束が2つも3つも置いてあるのです。何か特別のことがあったのかと思ったのですが、墓地は、いつもこんなふうに花で飾られているのだという説明を受けました。こんなきれいな墓地は見たことがありません。町の人々が近い関係の中で暮らしているひとつの表れなのかと感動しました。ネイソンの棺がすでに掘られた穴の中に降ろされ、人々が花を投げ入れて最後の言葉をかけた後、みんなが持っていた黄色と黒の風船が一斉に空に放たれました。何百という風船があたかも大きな鳥が飛翔していくかのような形を空に描き、やがて大空の彼方に見えなくなっていきました。それは、まさに詩のように、ネイソンの魂が風になり、光になり、鳥になり、雨になって自然界に戻っていく瞬間でした。
ネイソンが教えてくれたものは、豊かな人生とは、学校の成績ではない、物にあふれた生活でもない、身体というこの世に存在するために与えられた容姿でもない、何を持っているかではなく、何を与えることができるかであるということです。そして、その究極にあるものが、他の人々とのふれあいであり、他の人々との結びつき、絆、関係が人間の人生を本当に豊かなものにするのだ、そこに、真の幸せがあるのだ、ということだと思います。生きる長さではなく、生き方なのだ、ということでした。ネイソンのご両親は、短いながらも豊かさに満ちた息子の人生に大きな誇りを持たれ、そして、その誇りがこれから始まる試練の日々を乗り越えていく心の糧となるのだろうと思います。
スワンヒルへの旅は、ICETの生徒たちや先生たちが残した遺産を肌で感じるものでもありました。過去10年間にICETの存在が地域社会に与えたインパクトは深く大きなものであり、その強さと絆は、私の想像を遥かに超えたものとして、人々の心に残っていました。それだけ、ICETの生徒や先生がコミュニティの一員として生活していたということなのでしょう。
コミュニティに生きること、コミュニティの一員であることが、人間にいかに活力と希望を与えるものであるかを再認識した週でした。
まずは、お隣の人、自分の周りにいる人々に暖かな笑顔で接し、爽やかな言葉をかけましょう。絆はそこから始まります。