Hartley Valley
投稿日:2014年9月21日
小さな、小さな、ビレッジで途中下車。
ギャビンさんがランチのためにバスを止めてくださいました。「歴史的な町だから」と。
オーストラリアの白人開拓の歴史の一端を残すところ。Hartley Valley。
オーストラリアの先住民の歴史は、4万年前に遡ります。その時代は文字がなかったので、文化も社会的な規律も生活の知恵もすべて伝承でしかなく、土地を豊かに保つ科学的なことなどは、残念ながら後世には残されていません。
アボリジナルと一言で言っても、下の地図のように、実は、こんなにたくさんの部族があり、それぞれが違う言語を持っていたことがわかっています。
1770年、キャプテンクックの船がハワイ、ニュージーランドを経て、オーストラリアの東海岸に到着しました。そこから、この地の歴史は大きく変わります。
貧困や犯罪者の処理に困っていたイギリスは、流刑の地としてオーストラリアを選び、そこに囚人たちを送り出し始めます。中には殺人犯もいましたが、囚人達の多くのは、ハンカチとかパンといった本当に小さなものから、羊や馬などを盗んだという罪で、船で数ヶ月もかかる遙か彼方の地に送られたのです。
病気の妹のためにパンを盗み結局19年間も牢獄に閉じ込められた「レ ミゼラブレ」の主人公ジャンバルジャン。昨今では、ミュージカルでよく知られるようになりましたが、作者のビクトルユーゴは、当時のフランスの法の行き過ぎた管理を批判しています。イギリス社会も法は弱者を守るものではなく、弱者をさらに叩きのめすものであったようです。
輸送の途中で命を落とした人々もたくさんいました。
オーストラリアのアボリジナルの人々は、新しくヨーロッパからやってきた人々に、アメリカやカナダの先住民たち同様、虐殺されたり、内陸部に追いやられたり、それまで存在しなかった感染病にかかって多数死亡し、人口は激減しました。
そして、今日に至るまで先住民の人々の大半は、政府の政策とのギャップはあまりにも大きく、社会の片隅に追いやられたままです。
さて、送られてきた囚人の人々の歴史も決して明るいものではありません。過酷な労働と仕打ち。ようやくと解放されて、土地を与えられ、新しく入植者として来た人々と、この広大な対立を徐々に開拓していきます。
今回カウラに向かう途中で通ったBathurst(バサースト)という町。ここには、1850年代にそこに金鉱が見つかり、ゴールドラッシュが起こり、世界中から一攫千金を目指す人々が集まってきました。
シドニーから西に向かう道路も馬車が通る道として一挙に広げられて行きました。でも、ゴールドラッシュ以前に道を作ったのは、囚人たちです。
Hartleyには、当時の道路の片鱗が残されていますが、有名なのが、この裁判所です。
残念ながら、内部は鍵がかかっていて見ることができませんでしたが、囚人達が労働中に何かした場合には、この裁判所で裁判にかけられたということ。1840年代に建立されたという教会と聖職者たちの家がありました。
ランチは、家から持参したものを皆思い思いの場所で。
草むらの中にとてもすてきな笑顔を見つけました。どんな話に興じていたのでしょう。あの大きな青空を見上げて、未来の夢を語っていたのかもしれませんね。
お腹がいっぱいになったところで、一路、カウラに。Blue Mountainsを超えれば、後は、平地。春なので、道の両側は緑がきれいです。途中でミモザが何キロか続くようなところもあり、緑と黄色が何ともきれいです。