カウラで起こったこと
投稿日:2014年9月23日
シドニーから車で5時間ほどのカウラは、とてもとても静かな町でした。
1944年まで。
誰もが予想だにしない思いがけないことが起こり、その出来事は、カウラの町のその後を変えました。
戦時中、カウラには、戦闘で捕虜になった敵兵たちのための収容所が建設されました。
延々と続く平原に、4つの地区に分けて、ハットと呼ばれる小屋がたくさん建てられました。
ここに送られて来た人々のほとんどは、日本兵とイタリア兵ですが、中には、インドネシア人、韓国人の民間人も少数混じっていたようです。ジュネーブ条約に加盟していたオーストラリアは、戦争で捕虜になった敵兵を祖末に扱うようなことはせず、日本の兵隊さんたちには、きちんとした食事が与えられ、労働も本人の希望がなければありませんでした。
同じ収容所のイタリア兵たちは、収容所の周りの農場で働き、地域の人々との交流も許されていました。
戦闘の激しい南洋の島々から遠く離れたこの地は、平穏な毎日でした。
徐々に捕虜の数が増し、一部の人々がヘイという別の収容所に送られるという通達があったことをきっかけに、各ハットの班長会議が開かれ、死ぬ事を目的に、集団脱走を図ることになり、各班で投票が行われました。◯ならば死。Xならば生。
戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という言葉に運命を支配された瞬間でした。
ここに収容された兵隊さんたちのほとんどが偽名を使っていたということです。捕虜になることが恥であり、それがわかれば、日本の家族に迷惑がかかり、戦死という名誉も受けられなくなってしまうからです。
ということは、戦争に行ったまま帰らぬ父、夫、兄弟を待つ日本の家族の方々は、大事な人がここで命を落とした事実を知らないままということです。ご遺族は、ご存知ないまま亡くなり、今現在ご健在の方々もご存じないままでしょう。今もって。
この時の詳しい様子については、私たちが把握しているものでは、次のような資料があります。
* 「カウラの突撃ラッパ」零戦パイロットはなぜ死んだか。中野不二男著
* 「カウラの風」土屋康夫著
いずれのアマゾンで購入可能です。
* 「あの日、僕らの命は、トイレットペーパーよりも軽かった」DVD
* BSドキュメンタリー 「カウラの大脱走」2006年12月9日放送
* 英語版では、「Cowra Breakout」という映画があります。
BSドキュメンタリーは、当時留学中だった生徒のお母様が録画してくださったものです。
DVDは、帰国した生徒が、「先生、こんな映画が制作されましたよ〜!!」と送ってくれたものです。
「カウラの風」は、著者の土屋様から直接進呈していただき、「カウラの突撃ラッパ」もいただいた本です。
生徒たちは、カウラを訪問する前に、1944年にこの地で何が起こったのか、そして、なぜ起こったのかをしっかりと学んでから来ました。収容所址を歩いた若者たちの脳裏には、何が過っていたのでしょう。。。
跡地の入り口には、去年まで無かった新しい看板が建立されていました。戦争が終わり、日本に送還される寸前の写真です。左側の兵隊さんは怪我をしていて救急車の中で待機。右の写真は、日本に行く船に乗り込む際のものとのこと。
その複雑な胸中は、戦争を体験していない私たちには到底想像できるものではありませんでしょう。
この脱走事件は、スイスを通じて日本政府に伝えられたということですが、日本政府は20年間封印しました。
そして、日本に戻られた兵隊さんの多くが、この事実を心の中にしまったままで生涯を閉じられているということです。
この悲劇から、たくさんの友情が生まれました。
日本庭園は、その象徴です。