悲劇から生まれた友情
投稿日:2014年9月24日
カウラの冬は、荒涼としています。
周りはただ茶色。かさかさに乾いた茶色。夜は凍てつく寒さ。4月にこの地を訪れると、何枚も重ね着し、その上に何枚も毛布をかけないと寒さに震えるような冷たい空気です。
兵隊さんたちが脱走に踏み切った夜も、凍てつく寒さだったといいます。そこで起こった悲劇が、その後、たくさんの友情を生み出しました。戦闘での憎しみを捨て、人間の暖かさ、人を愛で尊び大事にする心を取り戻すために、勇気を出した人々によって可能になったことです。
日本政府が封印しても、そして、オーストラリア政府も封印してしまっても、仲間のオーストラリア兵士たちも一緒に命を落とすことになっても、脱走によって命を落とした231人の日本兵のお墓を、4人のオーストラリア兵士のお墓の横に建立し、以来、ずっとそのお墓を守り続けてくださっているのは、カウラの人々です。その後、日本政府もきちんと支援し、協力体制を構築しています。
この写真は、新たに、収容所址に設けられたものですが、左側が山田雅美さ ん。真ん中が高原稀国さん。日本でカウラの戦友たちの「カウラ会」を立ち 上げ、亡くなった戦友たちを弔い、その後の日豪関係に大きく貢献された 方々です。
山田さんは、今年死去されましたが、数年前に「カウラの風」の著者の土屋 康夫氏のお計らいで、卒業生の数名と一緒に山田さんから直接戦時中の体験 のお話を伺える機会を作っていただきました。
大変に明るい方で、体験を大変さを微塵も感じさせない軽妙なタッチで4時間ほどにわたって語ってくださり、極めて貴重な体験となりました。その後、いつかカウラでご一緒できるかもしれないと心待ちにしていたのですが、体調がすぐれないということで取りやめるというお手紙を頂戴しました。そこには、若い人々が、歴史に、そして、カウラで起こったことに関心を持っていることが心に染みる旨のことが綴られていました。
山田さんについての新聞記事です。 http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=19376
高原さんは、何度もオーストラリアを訪れてみえます。直接にお会いしたことはありませんが、いろいろな資料や録画があり、あたかも直接に存じ上げているような感覚を持ってしまいますが、高原さんも逝去されました。
戦後に多くの日豪の人々を結びつけてこられたお二人のご冥福をお祈り致します。
カウラで起こったことのとてもわかりやすい説明文をみつけました。 http://www1.odn.ne.jp/kminami/sub16.html
カウラには、毎年、私たちの訪問を待っていてくださる方があります。脱走があったその日に16歳の誕生日を迎えたBruce Weir(ブルース ウイア)さんです。この方の運命もその日から大きく変わりました。
40年間、戦争への恐怖と敵国への憎悪に満ちた日々を送っていたところ、ある日、お母さんのメイさんに逢わせて欲しいという依頼が川口進さんという方から届きました。
脱走の何日か後、捕まって収容所に送られる際に、「さぞかしお腹がすいていることでしょう」と焼きたてのスコーンと飲み物を差し出してくださった婦人がいました。それが、ブルースさんのお母さんのメイさんです。その好意が忘れられず、40年後にお礼を言いに訪ねてみえたのです。
もうメイさんは亡くなっていたのですが、その後、ブルースさんと妹さんのマーガレットさんに、日本への招待状が届きました。マーガレットさんは、日本で本当に心温まるもてなしを受け、歴史の先生方に講演したり、テレビに出たり、たまたま出会ったタクシーの運転手さんに丸1日案内していただいたりと、日本観をそれまでのものから180度転換することができました。
一方、ブルースさんは、その時には、まだ、心のしこりが大きく、どうしても日本行きを承諾できなかったということです。でも、帰国したマーガレットさんが日本を語る様子から、ブルースさんの心の氷が溶け始め、この体験を語ることで平和への貢献ができるのではないかと考えられるようになり、それからは、日豪の友好関係にもっと積極的に関与されるようになりました。
ブルースさんにもぜひ一度日本に行っていただきたいと考え、お勧めした結果、いよいよ実現の運びとなるかというところまで進展したのですが、最終的に行かないと決断されました。
去年と今年は、お年を召して話をされるのが大変なので、直接、お話を伺うことはなかったのですが、それ以前の生徒たちは、この収容所址で、時には、寒いに風が吹く中で、あるいは、砂嵐が舞ったりする中で、ブルースさんのお話を聞かせていただいたものでした。
もう直接にお話していただく機会はありませんでしょうが、電話で、こんなふうに言われていました。
「あの日がなかったら、と思ったことは数えきれないほどある。起きたことを受け入れるまでに長い年月がかかった。でも、あの日があったことで、私は、平和がどれほどに大事なものであるかを実感することができたし、戦争をしてはいけないということを訴える続ける勇気を持つことができた。何よりも、私は、あの日がなかったら自分の人生で決して出会うことのないたくさんの人々に出会うことができた。そこからたくさんの友情も生まれた。それが私の運命であったのであれば、私は、それを誇りに思う。」と。