Multiculturalism
投稿日:2011年3月5日
世界には、難民がたくさんいます。
移民したい人たちが多いオーストラリアには、難民として、あるいは難民を装ってボートで渡ってくる人々が何千人といます。パスポートを持たない人、身元が確認できない人がたくさんいます。違法で入国を試みるので、政府は、その対策に頭を痛めています。
多くは、クリスマス島という、オーストラリアよりもインドネシアに近い、大海の真ん中にポツンとあるところの収容所に仮収容されます。仮といっても、何年という単位の話しです。
ここに閉じ込められている人々を1日でも早く社会の中に参入させるべきだという意見がある一方で、いや、正式に移民するのでさえも何年もかかるのだから、こういう違法な形でやってくる人々は、即刻、それぞれの国に送り返すべきだという意見が真っ向から対立する構図が、何年も続いています。
先日、大勢の人々を乗せた船が嵐で何度も岸にたたきつけられ、40名近い人々が死亡するという大惨事が起りました。くすぶっていた難民、違法移民の問題が一挙に大きく浮上しました。
その中に、家族全員を失ってしまった9歳の男の子がいました。
その子供を収容所に戻すのか、それとも、豪社会の中に解放するのか、国会で審議されました。折りしも、ドイツで、イギリスで、そして、フランスで、「multiculturalismは、失敗に終わった」という宣言が出され、波紋が起きていたばかりのところです。
当然、オーストラリアでも、「multiculturalism」が取り沙汰されることになりました。
multi(複数)cultural(文化的な)ism(主義)は、多文化多民族主義と訳したらいいでしょうか。
オーストラリアは、いわゆる「白豪主義」と言われる白人の移民を中心とする移民政策を長い間実施してきました。1973年にそれが撤廃され、世界のどこからでも移民が可能となり、2011年の現在では、人口の半分近くが、外国生まれとなっています。
それぞれの人が、元々の国から持ってきた言語、生活習慣、食生活などを大事にしながらも英語を共通語とし、オーストラリアという国の文化と価値観を分かち合い、この国に愛国心と忠誠を誓うというのが、multiculturalismの主旨です。
ヨーロッパは、この価値観と文化を分かち合うという根本で失敗したのです。
2001年、アメリカでの同時多発テロ事件が起ってからは、オーストラリアでも、イスラム教徒の人々への偏見が社会を覆うようになりました。それゆえに、multiculturalismは、危険な思想で、ヨーロッパと同様、不必要なものだ、とする人々がいます。
その一方で、ヨーロッパの失敗とは対照的に、オーストラリアは、違う人種が互いに尊重しながら仲良く住むことに成功している稀な国。これを当然誇るべきだろう、大事にすべきだという人々。
ヨーロッパが失敗したのは、多民族が交流することなく、社会の中で対立する構図を作ってしまったことに原因があります。もともと、移民してきた人々が、かつて植民地だったところから来ているので、最初から、上下関係の差別が社会の中に存在していたことも原因になっているのでしょう。互いに尊重する精神が初めから欠けているのであれば、友好な関係が築けるはずもなく、社会の中での分離、乖離が激しく、価値観の共有など望むべくもないのでしょう。移民に対する経済的な援助も維持することができなくなり、「multiculturalism失敗宣言」に至ったものと思われます。
オーストラリアは、本当に、様々な人種が仲良く暮らしている国です。すでに「共存」の精神が十分に社会に浸透しているのに、それをあえて「主義」と謳うからおかしくなるのです。
「。。。主義」というのは、人々を融和に導くよりも、むしろ分離させてしまうことが多いように思えます。
アメリカに長く暮らした方が、オーストラリアを訪れ、この国の解放的な雰囲気と無防備な状況に、「信じられない」を何度も連発していました。それほどに、この国はおおらかなのでしょう。それほどに、オーストラリアは、違う文化への警戒心の壁が非常に低いということなのでしょう。
どこかの国で紛争が起るたびに、難民の数は増えていきます。オーストラリアへの移民の希望も増加の一方です。オーストラリアが、「多文化多民族共存の場」のモデルとして存続していく国であって欲しいと思います。
そういう国にゲストとして勉学に来ている日本の子供たちは、本当に幸せなことです。周りを見回せば、いろいろな人々との出会いの機会があり、交流の機会があります。
ホストファミリーという身近な存在も多文化の集合です。アイルランド、イタリア、インド、チリなど様々に文化背景が違います。
そんな環境の中にあるこの留学を真に世界に羽ばたく1歩としてフルに活用して欲しいですね。