南十字星が結ぶ縁
投稿日:2011年4月7日
長年願っていたことが叶いました。
ここ数年、「Cowra(カウラ)」という名前を知る人々が日本でも増えてきました。
カウラは、シドニーから車で5時間ほど西に向かったところにあります。ここには、日本と切っても切れない関係があります。
戦時中、南太平洋で戦争捕虜となった日本の軍人が送られた収容所がありました。捕虜の数が徐々に増え、ある日、下士官たちのグループがHay(ヘイ)という場所にある別の収容所に送られることになりました。
分散されることを嘆き、それなら、捕虜の身でいるよりも、一層のこと、柵を破って撃ち殺され、潔く死のうという案が出され、各班で、「生」か「死」の投票をすることになりました。「生」なら○、「死」ならX。結果として、Xの数が上回りました。
1944年8月5日の未明、突撃が決行されました。その結果、231名の命が失われました。
カウラには、その悲劇を弔うために、日本人墓地と日本人庭園が建設されています。それらの場所は、カウラの市民によって大切に管理されています。長く続いた干ばつで、町が節水を余儀なくされている間も、墓地と庭園の芝生と木々には大量の水が注入され、瑞々しく保たれていました。
シドニーに住むようになってから、何度か、折があれば足を運んでいたのですが、いつの間にか、毎年4月末にお墓参りに行くようになりました。
偽名を余儀なくされたのであれば、そこで亡くなった方々の魂は、日本で待つ家族に戻ることなく、永遠に南十字星にその切ない想いを託したままさ迷ってみえるのではないかと感じられるからです。
以前、パプアニューギニアのBougainville(ブーゲンビル)からオーストラリアへの帰還兵によって運ばれ、シドニーのRSLクラブの飾り棚で眠っていた日章旗を日本の持ち主のご家族にお返しするお手伝いをする機会がありました。たまたま、日章旗に書かれている文字から、持ち主は、出征前は、「岩手無尽」という会社に勤務されていらした伊藤さんという方であることがわかりました。盛岡中央高等学校の先生方や岩手日報社のご協力をいただき、ご家族の元に戻りました。
戦死された伊藤さんの遺品が何もなかったご家族がどれほど喜んでくださったかは、想像に難くありません。
そんなふうに日本で待ってみえるご家族に代われるものではなくても、シドニーにおいて今の日豪の友好関係の恩恵を受けている一人であるからこそ、お参りしたいという気持ちに駆られます。
たまたまご紹介いただいたWeir(ウイア)さんとのおつきあいが続き、1年に一度の私の訪問を楽しみに待っていてくださるようになりました。ウイアさんは、事件のあった前日に16歳の誕生日を迎え、今は、82歳になられます。一昨年には、肺炎にかかり、とても弱気になられた時もありました。
長い間、実際にこの体験を経て日本に戻られた兵隊さんにお会いすることができないものだろうかという気持ちがあったのですが、なかなかそんな機会も作れずに何年も過ぎてしまっていました。
手元にあった「カウラの風」という本の著者土屋康夫氏に、去年連絡をとってみました。当時、岐阜新聞社の論説委員をしていらした土屋さんが、鳥取にお住まいの山田雅美さんにお引き合わせくださることとなりました。
そして、遂に、その出会いが実現しました。
すでに92歳になられるという山田さん。かくしゃくとしたお姿で歩かれ、戦争に招へいされた時から帰国されるまでの間のことを詳細に、そして、淡々と語ってくださいました。10時から3時までの時間が、あっという間に経ってしまいました。それでも、まだ、語り足りない、聞き足りないと感じられるものでした。
山田さんのお話は、まるで、映像を見ているかのように生き生きと、場面場面を彷彿させるものでした。生死をさ迷っているような瞬間でさえも、まるで物語かのように淡々と、そして、時々、笑いながら話してくださいます。
日本から徐々に南下していく過程。コレヒドール要塞の攻防。ラバウルから移動船の底を襲撃され、海に投げ出されて5日間漂流。もうだめかと思っている時にポケットに鰹節があることを思い出し、塩水を吸って柔らかくなったその鰹節が実においしかったこと。捕虜となるまでの様子。オーストラリア兵士たちとのやりとり。ところどころで交わされた戦友との会話。カウラでの詳細。終戦となって日本に戻り、戦死扱いとなっていることを知って、お寺の和尚さんにどうしたものかと相談したこと。鑑忠院雅芳照美という戒名が付けられていたことなどなど、本当に詳しく語ってくださいました。
「カウラにまた行きたくなりましたヨ。9月の桜祭りに行くことを考えます。」と別れ際に言ってくださいました。
シドニーで、その日をお待ちしています、山田さん!
1時までという予定が2時になり、そして、3時になり、その間、予定もあったでしょうに、席を外すこともなく、姿勢を崩すことなく一生懸命耳を傾け、そして、たくさんのメモを取っていた参加者の皆さん、山田さんがその気になってくださったのは、みなさんの真摯な気持ちがそのまま伝わったからでしょう。
92歳の山田さんが、よし、もう一度と、未来に向けて、奮起されたことは、この日があって良かったと思えるものでした。
ありがとう! 皆さんの参加に心から感謝します。