Cowra 3

投稿日:2011年5月3日

 カウラの冷え込みは、シドニーでも知られています。

 ホストファミリーも先生たちも、口をそろえて、温かな下着や洋服、厚いソックスなどを持って行きなさいと生徒たちに伝えます。スリーピングバッグ(寝袋)も持参が条件。

 まだ、秋も始まったばかりなのに、やっぱり、冷え込みました、最初の夜。

 「先生、寒くて寝られなかった」「あの部屋にヒーターひとつではムリ。寝るときは、危ないから消さないといけないしね・・」と数人の男子生徒たちが、朝開口一番に寒さを訴えてきました。

 「スリーピングバッグでも、そんなに寒かった?」「スリーピングバッグ持ってきていない。」「えっ?! 持ってきていない?? どうやって寝たの?」「シャツだけで。」「そりゃああ、寒いわけよ。 (ん? そうなると、キャンベラでは一体どうしていたのかしら? 誰もスリーピングを持ってきていないなんて言っていなかったけれど・・・ と私の独り言)」

 「ここはもうムリ」「こんなところにいられない」

 さあ、大変、どうしましょう。他の宿を探してみるしかないかしら・・・ 毛布やヒーターをもっとたくさん入れてもらってもムリかしら・・・

 ともかく交渉です。前日も交渉したけれど、部屋が無いでおしまい。今日も、明日早朝に着くゲストたちがいるのでキャビンは一切使えないとかなり頑強に拒まれたのですが、そのうちに、「とてもムリを強いられるのだけれど・・・」と言いながらも、女子部屋と同じ設備が付いた部屋を1部屋だけ譲り分けてもらいました。誰がバンクハウスに残り、誰が新しい部屋に行くかは、男子の中で相談して決めることになりました。今の部屋に残るという生徒も数名。バンクハウスには、ヒーターをもうひとつ、毛布も数枚余計に入れてもらいました。

 「捕虜収容所には、ヒーターなんて当然なかったし、日本の地震や津波の被災者の避難所も雪が降って寒かったから、その大変さが実感できるでしょう?」と言ったら、「先生、なんでそこに結び付けるのヨ?」

 (捕虜になった日本の兵隊さんたちの体験を少しでも身近に感じ、理解し、より深く感謝を感じることができるよう、ここに来たはずなんだけれどなあ・・・・)と、また私の独り言。

 遅れ遅れになってしまったのですが、ともかくも、予定の場所に出発。最初は、墓地へのお墓参りです。

同姓の兵隊さんの名前を見つけて感慨に耽っている様子

 脱走の時に亡くなった方だけでなく、当時オーストラリア全土でたまたま亡くなった方々もここで弔われています。18歳、19歳という若い年齢の方々も少なくありません。どの時代に生きるかで、そして、どの国に生きるかで、人々の運命は大きく変わります。「先生、僕は、今の時代がどれだけ平和であるかがよくわかった。今の日本に生まれて良かった。」と一人の生徒がしみじみと言っていました。「祖先と親に感謝だね。そして、兵隊さんたちにも。」と、無名兵士たちの石碑に花を供えていました。

 この墓地は、日本庭園を見上げる位置にあります。庭園を見て、兵隊さんたちに故郷を思って欲しいという配慮で庭園の位置が決まったという話を聞いたことがあります。

同じ時に亡くなったオーストラリアの見張り役の人々のお墓

 10時に、収容所址で、Bruce Weir(ブルース・ウィア)さんとお会いしました。16歳の誕生日の夜に起った事件で、ブルースさんのその後の60余年の人生は、人間が味わう感情の両極に激しく揺さぶられる連続のものとなりました。「私のストーリーは、私の母メイ・ウィアと神戸の川口ススムさんのストーリーです。そのストーリーによって、私は、今日も生かされているし、みなさんと会うこともできました。オーストラリアの人も、日本の人も、違うように見えるけれど、人間は、本当はみな、同じ。同じ心を持っていることを忘れないで欲しい。」

 ブルースさんは、私たちに当時の話をしてくださる度に、すこしずつ心が軽くなっていくと言われます。いつか、心の重石が完全に解ける日が来ますよう。

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