Cowra 4

投稿日:2011年5月4日

 ブルースさんに別れを告げ、急ぎカウラハイスクールに。

 小さな町なので、どこに行くにも、5分から10分で移動できます。

 カウラハイスクールは、東京の成蹊高等学校と姉妹校です。Judith Smith先生という日本語が大変お上手な先生がいらして、ICETの生徒たちをとても温かく迎えてくださいます。去年まで2クラスあった日本語の授業は、今年は1クラスになってしまったということ。私たちが会うのは、ほやほやの7年生です。

カウラハイの7年生と

 去年は、広島の原爆についてのプレゼンテーションをしました。今年は、日本の被災地に送るためのメッセージをオーストラリアの生徒と日本人の生徒で合同で作ることにしました。最初に初対面の緊張をほぐすために、ICETの生徒たちから提案のあったゲームをしました。黒板に動物の絵を描いて、名前を日本語で言うというものです。「この生徒たちは、動物の名前は、まだ、イヌしか知りません」と先生。では、ということで、まず英語であてて、その日本語を覚える、ということになりました。

 その後、数人のグループに分かれて作業に移りました。1時間があっという間に過ぎ、20枚ほどのメッセージが集まりました。仙台やいわき市で、メッセージを送る先の学校を選んでいてくださっている方々がありますので、もう少し集めてから、送る算段を考えましょう。カウラハイの7年生のみなさん、ありがとう!

 カウラの町を見渡せる丘にちょっとした公園があり、そこでランチを済ませた後、リタイアメント・ビレッジに。

プロの腕前におばあちゃんはにっこり

 この施設には、一人で自立した生活をすることが難しくなった方々が住んでおられます。時折まだお元気で、闊達な会話が出来る方もいらっしゃいます。今回もそんな方にお会いすることができました。

 上海生まれでシドニーでハイスクールに行った。お父さんはスコットランドの方で、上海の戦争捕虜収容所の所長として派遣され、自分はそこで生まれた。終戦後ヨーロッパに帰る代わりに、オーストラリアに移民した。マンリーのハイスクールに入る時、水泳をするのに邪魔だから長い髪を短くせよと言われて、ものすごく辛かった。というようなことを話してくださいました。

 その収容所は日本兵のためのものであり、そこでたくさんの日本兵と接触があったお父さんは、日本人の収容所でのありようを後になってとても褒めてみえたということです。心に沁みてくるお話でした。

 最初に、ランナさんの伴奏で「栄光にかける橋」を。そして、練習したWaltzing Matildaをギャビン先生の伴奏で。ビレッジの皆様も一緒に歌ってくださり、大好評でした。

 ビーズのアクセサリーを腕に付けてもらったおばあちゃんたちも大喜びでした。みなさんに喜んでいただけて良かったですね。

 最後は、「何でも屋博物館」に。手当たり次第、何でも、ありとあらゆる物を集めてきたというような博物館があります。カウラを始めオーストラリアの歴史を示すもの、汽車や駅や馬車の変遷、市民の生活の様子を彷彿させるものなどがところ狭しと並べられています。ドイツ兵が最後の瞬間のために常に携帯していたという手の中にすっぽりと入ってしまうような小さなピストルから本物の戦車まで、戦争に関係するものも。この博物館のいいところは、触ってはダメというものがほとんどないことです。おもしろかったのは、反応の違いです。怖くていやと早々と切り上げる女の子たちに反し、男の子たちは、本当に興味深そうにいろいろなものを眺め、触り、試し、楽しんでいました。

 BBQの夕食。昨夜も今夜も大きな助っ人がいました。ギャビン先生です。ソーセージの焼き方を教えてくださったり、最後まで焼いてくださったり。

 ビーフとポーク、そして、ソーセージの他に、買ってあるものだけでは足りないかもしれないということで、鶏肉が欲しいという所望がありました。買いに出たものの、生の鶏肉のコーナーには、有機栽培の餌で飼育されたものや放し飼いのものは売り切れてしまっていて、どうみても、ホルモンがたっぷりと注入されているようなものしか置いてありません。眺め、考え、数回その前を行ったり来たりしたのですが、どうしても手を出すことができません。

 まあ、じゃがいもも大きなものが丸々あるからいいとするか。他のものをもう少し仕入れることを考えれば良かったのにと思っても後の祭り。 

 最後の夜だというのに、お腹いっぱい、おいしかった、という満足感無しに終わってしまった生徒たちがいたことは、かえすがえすも惜しいことをしました。

 これも体験、ということにしておきましょう。

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