盛岡中央高校国際フォーラム
投稿日:2010年9月8日
盛岡中央高等学校の国際フォーラムは、今年で12回目を迎えました。年を重ねるごとに姉妹校および参加校の数が増えていきます。今年の参加校は、全部で13か国、16校。どの国の姉妹校も、アカデミックな面で、あるいは文芸やスポーツなどにおいて、その国で社会的な評価の高い学校を相手に選んでいるということです。
デイビッドソンは、初回から名前を連ねる学校です。盛岡中央高等学校からICETを通してデイビッドソンに留学してくる制度は、その数年前に設立されたので、その歴史もすでに12年を超えたことになります。
中央高校の生徒たちは、留学から戻って、毎年、このフォーラムで実行委員として活躍します。おととし一人でICETに留学してきた楓さんは、実行委員長としてフォーラムの成功に大きな貢献をしました。毎年留学を終えた生徒たちが、習得した英語を駆使して、各国から集まってくる高校生たちとわだかまりなく交流し活躍している姿に頼もしさを感じます。
私は、初回から、時々このフォーラムに参加させていただいています。多くの国々から教育関係者が集う場所であるので、先生たちの交流会をもってはどうだろうかと提案させていただいたのが2007年。何をテーマにしようかというところで、沖縄の尚学高校の副校長先生が「道徳をどう教えるか」というテーマはどうだろうと発案してくださいました。1時間が1時間半に延び、それでも、到底収まりきらない思いが飛び交った白熱の時間となりました。それを機に、毎年、「教員交流会」というものが開催されるようになりました。
去年は、「どのような理念のもとに学校を経営しているか」というテーマが選ばれ、1年間を置いて私が司会を担当することになりました。時間は2時間半。20数名の先生がたに3つのグループに分かれて、たっぷりと意見を出していただきました。理念はさることながら、先生がたの一番の関心は、ITでした。インターネットの使用による恩恵は誰もが認めるものの、そこに潜む問題点は無限にあり、どの学校でも先生方が直面しているものです。
その時の内容は、「国際教育への架け橋」 という題名の本として、中央高校の母体である龍澤学館から発刊されました。「架け橋」という言葉は、「武士道」の著者である盛岡出身の新渡戸稲造氏の「日米の架け橋たらんことを望む」という心意気に重ねた言葉です。
”A Pathway to International Education”という題名で英語版もついています。関心をお持ちの方は、私までご連絡ください。譲っていただけるのではないかと思います。
今年も司会をということでしたので、今年は、議題に希望があるかどうか、参加校にフォーラム担当の方々から呼びかけていただいたところ、「環境教育」「国際教育」が出てきましたのですが、またもやITが出てきました。
各国のITの発達状況はまちまちです。韓国のようにブロードバンドのインフラが国の隅々まで張り巡らされ、コンピューターを駆使して学習することを国策とし、すでに授業の中に高度に組み入れられている国、オーストラリアのように、これも国策として、全国津々浦々高速のブロードバンドを設置し、毎年中学3年生全員に1人1台を支給し、各教科の中にコンピューターによる教育内容を取り組むことを実施し始めた国、アメリカのように公立と私立では教育のありようが全く違い、インターネット環境も特に私立であればまったく個々に任されている国・・・
国の姿勢や経済状態の違いはあっても、コンピューターを介しての教育は、確実に、ものすごいスピードで進んでいることは確かです。
その恩恵は疑いようのないところですが、その一方で、失われるもの、あるいは、培い損ねる人間的な資質、そして、危険なサイトへの誘惑の危惧もまた、現実のものです。韓国の昌文女子高校のKim In Sun先生は、一番大事なのは、「体でぶつかりあい、心と心を通じ合わせる教育である。そのために、先生たちは、生徒たちがお互い助け合わなければならない状況にある活動をたくさん考え出し、実践している」と強調されていました。
ニューヨークにあるThe Masters Schoolの校長先生が、おもしろいことを言われていました。
「今の子どもたちは、常に機械でつながっていて、一人の自分というものの存在見つめる機会がない。そのことは、自己をどう評価するかという人間の根本に大きな影響をもたらすだろう。」
携帯を一時も離せない若者の心理を鋭く突いたもので、これからの社会の問題となる面を示唆しています。CanadaのMount Douglas Secondary Schoolの先生は、携帯でメッセージを送るなと若者に言うことは、指を1本切れということと同じことだ、と言われました。そこまで、携帯でメッセージを送り届けることが身体の、そして、頭脳の一部になってしまっているということなのでしょう。
日本人は、そうでなくても、意見を表明するということを一般的に得意としないのに、メッセージは送れるけれど面と向かった際には何を言っていいのかわからない、という若者が増え続ける昨今、機械を通さないコミュニケーションの能力を開発することは火急の課題です。
それができる唯一の時は、生まれてから小学校にあがる前であり、それができる唯一の場所は家庭でしょう。
それがしっかりと確立されていれば、その後に起きる青少年のいろいろな問題の多くは回避できるのではないかというのが、私の見解です。