Boundary 4
投稿日:2011年9月21日
自分のboundary(限界、存在範囲、他の人間とのバランスを保つ線、他者との間の期待値)はどこにあるのか。
人生は、もしかしたら、その線がどこにあるかを捜し求める試行錯誤の旅の連続なのかもしれません。
以前お話したことのあるrespectを取ってみましょう。
ある生徒が何気なくしたことが、先生の目にはrespectが無いと映ることがあります。生徒が先生との間に引いたboundaryと、先生が生徒との間に引いたboundaryの線が組みあわないからです。
ある人が良かれとしてやったことが、他の人には、余計なお世話になってしまうことがあります。これも、それぞれが自分と他者の間に引くboundaryが違うからです。
親子でも起ります。どこまで子供を甘やかせていいのか、どこで厳しくすべきか。何をどこまで、いつ、言ったらいいのか。踏み込みすぎれば、子供の自立を奪ってしまい、適度な接触がなければ、愛情は健全な形では伝わらなくなります。
友だちでも夫婦でも、親密さを保つためにはどこまで踏み込めばいいのか、どこまで踏み込んだら関係を崩してしまうのか。
そのboundaryがどこにあるのを見極めるのは、極めて難しいことです。なぜなら、そのboundaryを作っているのが、それぞれ個々の認識や価値観だからです。みな、違います。その違うそれぞれの個々が出くわす時の状況も、そのたびに異なります。
その線を広げれば広げるほど、自分の生きる範囲は広くなります。でも、相手がいる場合には、自分が拡げれば、相手のboundaryを押し過ぎてしまうこともあるでしょう。そうなると、それまではゴムのように伸縮自由だった相手のboundaryが突如鉄格子に変わってしまうかもしれません。
自分が大火傷を負うことだってあるでしょうし、戻ることが不可能になってしまうことだってあるでしょう。
逆に、相手が拡げようとしているboundaryを受け入れ続け、きつい、無理、おかしいと感じても、自分のboundaryを確立しないでいれば、いつか、自分の理性のboundaryは崩壊し、自分が爆発してとんでもないことをしてしまうか、完全に他者や社会に対して閉じてしまうような結果になりかねません。
その線がどこにあるかを見極めることが「社会性」「柔軟性」「臨機応変」などという言葉で表されるものなのでしょう。本来の意味での「大人になる」ということなのかもしれません。
その社会性なるものは、生涯にわたって、自分と社会との関係を支配するものです。
高校生という年齢は、この試行錯誤をたくさん繰り返す時です。試行錯誤が許される時です。大人には許されないものであっても、学生ゆえに許されることがたくさんあります。
特に留学は、その絶好の機会です。日本では、考えられなかった種類のboundaryがたくさんあり、そのたくさんのboundaryに触れ、試し、越えることで、自分はどんどんと豊かになっていきます。
だから、今、挑戦して、今、失敗して、そこから大きく学んで欲しいのです。
失敗したって、今なら、恥ずかしくない。だって、今は、学んでいる時だから。責任ある大人、でも、魅力ある生きかたをする大人になるにはどうすればいいかを実験している時だから。
失敗したって、今なら立ち直れる、いくらでも。だって、そんな失敗は、誰もがみな、繰り返していることだから。
そんなことは、単に、生活の上辺のひとつの現象だけのこと。とはいえ、失敗によって、確かに、誇りとか、自分への期待とか、うぬぼれとか、見栄とか、体裁とかといったエゴは傷つきます。だから、失敗を恐れてしまいます。
でも、中で自分を支える精神は、そんなエゴの気紛れに負けないはず。
自分をより崇高なところにもっていきたい、自分が求める生きかたをしたい、正真正銘の自分の人生を求め、自分の存在意義を模索していく精神の存在に目を向け、その精神を自分の生活の中に取り入れていくことが自分を輝かすものであることに気が付けば、失敗への恐怖は軽減されるかもしれません。
人にどう見えるかではなく、自分がどういう自分でありたいか。
そのためには、自分の奥深いところから聞こえてくる声に耳を傾けることが大事です。
声が聞こえてきたら、その声に応えてみることです。聞かないための、無視するための口実を考えるのではなく。
これが、「勇気」と呼ばれているものなのかもしれません。
そして、実は、この勇気を持ち、自分のboundaryをしっかりと確立している人に、周りは敬意を示します。