Boundary 5
投稿日:2011年9月26日
「限界」という意味のBoundaryには、実際にそれ以上近づくことを禁じられているというものもあります。
特定の人しか許されていない場所、秘密結社、宗教的儀式、危険物が格納されている場所など、関係者ではない者が近づいたら危険があることを示す線です。
これには、しっかりと見えるものと見えないものがあります。「危険」「近寄るな」「柵に上るな」とあれば、これ以上明確なサインはありません。それでも、それを越えて怪我をしたり、死に至るような事故は頻繁に起ります。
「危険」という観念はあっても、「絶対ダメ」という禁止令がなければ、それに挑戦する人は出てきます。冬山の登山やサメがいることがわかっている海での遊泳とか。
命を落とすかもしれないけれど、自分のboundary(限界)がどこにあるのかを探すための挑戦なのか、それとも、単に極限の刺激を求めるためなのか、あるいは冒険することで何かを証明したいのか ・・・
Boundary探しの中には、時には、規則を、あるいは、社会常識をどこまで破れるか、というものも含まれます。
決まった枠の中に留まっていたのでは、進歩はありません。社会を変えるためには、新しい概念や新しい方法が要ります。だから、既成のものに必ずしも従うことだけがいいことではないのです。
でも、その一方で、社会には、ルールがあります。
特に、大人になりかけの高校生にとっては、自分の行動範囲を狭めるboundary(規則)を拡げてみたいと思うことは当然でしょう。
大人は好きなことをしているように見えるかもしれません。それは、大人がどれほど大きな重い社会責任を背負っているかがまだよく見えていないからでしょう。だから、高校生の自分たちだけが規則に縛られていると思いたくなるのでしょう。
この場合には、boundary(していいことの限界)を拡げる一方で、これを超えてはならない、というギリギリの線での「線引き」が必要となります。そこには、boundaryがどこにあるかを見極める確かな目、そこで行動を制御する強い意思、人に流されない勇気、そして、正しい行動を選択する決断力と理性が求められます。
高校生には、明確なガイドラインがあります。それは、学校のルールです。教室内にも、学校全体にもルールがあります。
そこには、「respect(敬意を持ちそれを形で出す)」とか「responsibility(責任ある生徒・社会人)」といった概念だけのも含まれます。
社会における、暗黙のルールや常識と同じで、なかなか、明確な文章や形では見えません。これは、小さな時から場を踏んで、身につけていくしかないものです。
高校生になっても、生徒たちは、周りの大人たちから様々な場所で注意されます。
その注意をうるさいと撥ね退ければ、それ以後に学ぶ場所はなくなるでしょう。なぜなら、社会に出たら、もう、誰もそれを注意する人はいなくなるからです。企業教育を受けられる人は幸いです。
注意をされることは、実は、とてもありがたいことです。その人の将来を思うから注意があり、受けて直すことができれば、それが人生の財産となるからです。