Boundary 6
投稿日:2011年9月26日
明文化されたルールなら、極めて明確です。
明文化されているのですから、白黒がはっきりとわかります。迷う余地はありません。
それさえ守っていたら、信頼を置いてもらうことができ、周りから大事にされます。
規則というboundaryを越えた際に、一度目は、「知らなかった」という言い訳は通用します。
二度目は、通用しません。うっかりでも通るかもしれませんが、意図的と見られます。
三度目に同じ線を同じ場所で越えたら、それは、愚かというしかありません。でも、それは、別なところに深刻な問題が潜んでいることの赤信号かもしれません。
ルールというboundaryを越えることは、勇気ではありません。勇気は、人を感動させます。ルール違反は、周りを困らせるだけです。
もし、そのルールが意味のないもので、あることがむしろ若者の成長を妨げるものであると考えるのであれば、ルールを設定している責任者と話をし、相談し、交渉すればいいのです。それは、自分の限界のboundaryを広げるための交渉であり、とても大事なことです。
なぜなら、新しい考え方、やり方はとても大事なものだからです。
物理的なルールが邪魔であれば、交渉すればいいのです。交渉次第で、ルールは変わるかもしれません。
でも、変わらないものもあります。そうであれば、その組織にいる間は、それに従うことを求められます。
違うルールを作り、違う体制を創造するためには、知恵と力が要ります。高校生は、残念ながら、通常まだその知恵と力を培っている最中です。待つしかないのです。
なぜなら、高校生である今は、現存するルールを守ることで守られる存在だからです。
抵抗するために、あるいは、不満であるために、無言でルールというboundaryを越えることは、自分への周りからの信頼を失うだけでなく、自分の自由を束縛される最も望まない結果にも続きかねません。
さらに厄介なのは、このくらいはいいだろう、という見くびりが、いつか崖から落ちる大事につながるかもしれないことです。
Boundaryとは、かくも難しいものであり、面倒なものです。そして、学力とはまったく関係ありません。関係するのは、知力と知恵です。EQです。
私たちは、boundaryに囲まれています。どこにどういう形で表れるのか、それを探し続け、見極めることで、少しずつ悧巧になっていきます。
Boundaryがある、という意識を常に持ち、新しい失敗を繰り返しながら、上手にこの旅を続けるしかありません。
そして、その過程において、自分が真摯に考え、誠意を持って事にあたっているのであれば、自分の決断と行動に自信と誇りを持つことができるでしょう。
それが、最終的には、尊厳というものにつながっていくのだと思います。