目的2
投稿日:2011年10月21日
ICETのプログラムは、英語力をあげるだけに創設されたものではありません。
英語は道具のひとつに過ぎません。そのひとつの道具の技術を磨くことはとても大事です。でも、その道具を使う人間がどんな人間なのかということのほうが比較ができないほどに大事なことです。
ICETのプログラムには、英語学習を超えた大きな目的と意味があります。
それは、21世紀のこの変わり行く世界の中で、若者たちが、それぞれの道を探し、そして、それぞれの将来を拓こうと、自分の自立した人生を歩き始める16歳、17歳という大事な節目で、どこに向かうか、自分の中の声が何を言おうとしているのか、自分の情熱がどこにあるのか、自分がどこまで自分を解放することができるのか、限界をどこまで拡げることができるのか、そうしたことを異文化の中で、世界の舞台に立つ最初の1歩として、「安全」に護られた環境の中で思い切り挑戦できるよう支援することです。
だからこそ、ICETは、学校の「成績」という数値で人を切ることをしないのです。ICETの望むところは、それぞれの若者の独自の人間としての開花です。
「留学したい」「大きな世界をみたい」「殻を破って冒険してみたい」と望むのであれば、その熱意と志が、その若者を人生の次の段階にもっていきます。
人間は、みな、それぞれにすばらしい宝物を持っています。ある環境から別の環境に移った時に、それぞれの持つ才能がすばらしい開花を見ることがたくさんあります。ICETの教師やスタッフは、この20年間、毎年、それを見続けてきています。
こどもたちは、オーストラリアのこの地にいて、「楽しい」という言葉を頻繁に使います。
この「楽しい」という言葉が、どうも、日本では誤解を生むようなのです。「楽しい」=「遊んでいる」と。
子供たちは、よく勉強します。「今までこんなに勉強したことはない」という言葉を発する子は稀ではありません。授業では徹底して参加が求められ、宿題もたくさん出ます。宿題をしてこなければ放課後残されます。授業中に居眠りするような生徒はもちろん一人もいません。
授業でこなしていく勉強量は相当なものです。ESLの授業のみでなく、選択教科では、数週間かけて取り組む課題もいくつも出ます。
でも、「楽しい」のです。学ぶことが楽しいのです。
学ぶことは、本来、楽しいものであるはずです。新しい知識、新しい技術が自分の中に日々入ってくることが楽しくないはずがありません。昨日できなかったことが今日はできる。その実感があるからこそ、楽しいのでしょう。
授業には、動きがあります。授業は、先生が進めるものではなく、生徒が進めるものです。生徒が参加し、反応し、学習し、リサーチし、発表し、そして、作品をたくさん生み出していきます。
その過程においては、「自分」らしさを注入し、「自分」に最も適する方法で学習を進めることが奨励されます。
だから、「楽しい」のです。
1年間、子供たちは、本当に自由な雰囲気の中で、思う存分自分を発揮しながら学習し、自分の中にたくさんの発見をしていきます。宝物がたくさん開花します。
でも、そういう宝物の開花が「数値」でしか見てもらえなければ、陽は当たりません。
「数値」を否定しているのではありません。数値は、ひとつの側面、そして、技術を測るものであり、それが、人間性、その人の持っている資質を測るものでは決してない、ということです。
だから生徒自身が、そうしたすばらしい人生体験、学習体験があっても、「期待されている数値」が出なければ、ご両親に対しての申し訳も立たず、子供は弁解しなければならない立場に陥ります。弁解を始めたら、そこで、この1年の自分の努力を否定するのと同じことになります。
それだけは、絶対に避けなければなりません。この1年間、遊んでいる生徒なんて一人もいません。みな、真剣であり、みな、一生懸命やってきています。それは、誇りになっていいはずのものです。
自信として持ち帰るためには、ふたつのことが必要です。ひとつは、自分に、「もっとできたのではないか」という悔いが残らない生活と送ること。もうひとつは、留学に来た当初の目的に戻り、その目的を成就する最大限の努力をすること、そして、未来に向けた「目的意識」を持つことです。
そして、ともすれば、数値だけに偏ってしまいがちな教育界において、ICETの教育理念も、その本来の目的を決して失うべきではないということです。