目的3

投稿日:2011年10月23日

 目的は、意味・意義です。

 目的は、比較ができるものでもなく、測れるものではありません。それは、内なるものだからです。その人個人だけのものです。そして、人間は、残念ながら、他の人々の内を見る術を持ち合わせていません。内なるものは、行動という形になって始めて周りに伝わります。

 それぞれの人が自分の目的を満たすには、人生の中でいくつもの段階があります。その時に見合った行動を起こすために適宜な目標が必要となります。

 目標は、具体的なもの、具体的な行動、具体的なレベル、具体的な到達地点など、具体性を帯びています。数値や測定するものさしは、ここで始めて役に立ちます。自分の進歩、伸びを見るために、そして、全体の中での自分の位置関係を知るために。

 これをさらに努力を積む励みとし、達成すれば、さらに高い目標に向かう指針となります。ここでは、数値は、とても有効な役目を持ちます。

 目標は、たいていの場合、なんらかのものさしで測ることができます。なぜならば、たいていの場合、測れるものに対して目標を設定するからです。

 世の中の大半の組織は、この数値で動いています。数値が高ければ高いほど社会的な評価も大きくなり、「成功」とみなされます。学術的なものだけでなく、物質的なものも然りです。成功とみなされれば、その裏にある目的や志に始めて人々の注意が行くようになり、その人の人物像が表に見えるようになってきます。

 そうした数値や結果に対する評価を無視して世の中を上手にわたることは、とても難しいことです。そんなことをしたら、社会の一隅に埋没し、底辺に生きなければならないようなことになるかもしれないからです。社会の一部である以上、そして、社会が敷いているシステムの中で活躍したいのであれば、この社会的「期待」のゲームに参加しないわけにはいきません。それに逆って生きることは、困難を伴い、勇気の要ることです。

 多くの人々は、社会のシステムを使うことを考えます。意図しなくても、意識しなくても、それに自然に巻き込まれていきます。巻き込まれず、通常の社会的期待を満たすのではなく、自分が本当に望むことをし、望む生き方をすることを選らんだことにより、それが、珠玉のものを生み出す結果となった人たちもいます。多くは、芸術家の中に見られます。

 この過程において、社会が期待するような数値が伴い、それが、自然であり、それが自分が心から望む過程であれば、これほど幸せなことはありません。毎日が、生き甲斐を感じるものとなるでしょう。学校の学習も同じことが言えます。

 大事なことは、多くの場合、ものさしや評価は社会が設定したものであり、それが、自分のものさしと一致するかどうかを問う姿勢を失わないことです。なぜならば、社会のものさしや評価は、とても気まぐれであることが多いからです。

 とてもおもしろい例があります。

 2007年のある日。ニューヨークの地下鉄の駅で、ある若者がバイオリンを弾き始めました。1時間弾いて、その間にこの青年の前を通った人々の数は約2000人。バイオリンのケースにお金を投げ入れた人が20人。集まったお金は32ドル。立ち止まって少しの間でも耳を傾けた人が6人。その中には、3歳ほどの子供がいて、何度か立ち止まって聴こうとするのですが、母親に引っ張られ、そのたびにバイオリニストを振り返って名残り惜しげに去っていったそうです。

 これは、実は、ワシントン・ポスト紙が意図して実験したものでした。このバイオリニストは、実は、ジョシュア・ベル。彼が弾いていたバイオリンは、350万ドルもするような代物。その2日前には、一席が平均100ドルほどのボストンでの彼の公演の切符は完売。 

 この意味を考えてみるとおもしろいです。

 生活のリズムが忙しすぎて、「美」に無関心なのか。

 地下鉄の構内と音楽ということが結びつかないから関心がいかないのか。それとも、そこでバイオリンの音が奏でられていることさえも気付かないほどに現代人は自分のバブルの中で生活しているのか・・・・

 子供の耳は、「美」に敏感なのに、大人は鈍感になるのか。

 路上で演奏する若者などに耳を傾ける価値はない、という先入観があるのか。

 有名だ、すごい音楽家だという名声があるから、聴きたいと思うのか、そして、それに払うお金は惜しくないと感じるのか。

 恐らく、「Joshua Bellの演奏」という看板を立てたら、この地下鉄の構内は行き来ができないほどに人々で埋まり、報道陣も群がり、みな、うっとりと演奏に聞きほれたのではないでしょうか。

 時代の流行や風潮は、メディアによって大きく左右されます。また、文化によっても違います。その時代が必要としていることによっても違います。メディアが創り出す価値観は、人々の価値観に浸透し社会的価値観となります。

 現代社会の子供たちは、大人の作ったスーパーハイウエーに乗せられ、より速く、より高いゴールに到達することを期待されています。それは、社会全体がそこに価値を置くからです。より社会的な評価を得られるものを目指して突っ走るのです。達成、達成、達成を続けているのもかかわらず、豊かな国に住む現代人の多くが、生き甲斐や幸せを感じていないのは、その達成が、達成することにのみ重きが置かれてきた結果なのでは・・・ 

 厳しい受験を通って入ったはずの大学で学問に関心がもてない、不登校になる、などは、目的なく目標だけに突っ走った結果でしょう。

 だからこそ、自分の目的に合わせて、何を目標とし、どんなものさしをその達成に対して使うのか、目標設定の際に考え、自分の達成を適宜に測れるものさしを選ぶことが大事になってきます。

 自分に妥協するというのではまったくありません。目的に合わせ、目標を立て、適宜なものさしを選ぶことは、むしろ、自分にシビアでなければできないことです。

 この3歳の子のように、自然に惹かれる世界への寄り道は、人間を豊かなものにするためにとても大事なものなのでしょう。それが難しくなってきている現在ならばこそ、余計にその寄り道は貴重なものをもたらす鍵となるのかもしれません。

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