目的4
投稿日:2011年10月25日
留学は、寄り道に相当するのかもしれません。
最近までは、確実に、寄り道とみなされていました。
より良い大学をめざすことが第一目標である日本の高等教育制度を途中で飛び出す、それも1年もの長きにわたって抜け出てしまうような考え方は、20年前には、とんでもない寄り道でしかありませんでした。それも危険な賭け。でも、あえて、その寄り道を選んだこどもたち、そして、それを許した親御さんたちがいました。それを学校制度の中に取り入れた学校もありました。
それは、その寄り道に、何らかの意味がある。大きな賭けをしてみる価値があることを、本能的に、あるいは、先見の目で捉えたからでしょう。その寄り道が、別の世界に扉を開くものになることに気付いていたのでしょう。バイオリンの音に惹きつけられた3歳の子のように。
その寄り道は、実は、人生の中で、そして、その後に続く道においても、重要な役割を果たします。その前と後では、生き方さえも変わってくるほどに。
本流に戻れば、元のさやに戻ることを余儀なくされ、寄り道している最中に見せた自然な輝きを出すことは抑制されてしまうこともあります。それは、今の日本の文化にとっては危険あるいはそぐわないものとみなされるからです。でも、多くの子供たちは、この寄り道の中で蓄えてきたもの、培ったものをその後に続く道でしっかりと燃やし続けることができます。
数値でものを捉える学校教育や社会の中では、その感性や創造的なものの考え方や見方を活かすことはとても難しいことです。でも、必ず活きてきます。人生の中で。その後に続く道の中で。
この寄り道が、世界に飛び出す最短距離であり、人生の選択肢を大きく広げるものであることが徐々に社会的に認識され始めてきています。それは、男の子の数が増えているということで証明されているように思います。寄り道だとみなされたことが、目的を果たすひとつの有効な手段であるだけでなく、人間の感性を磨くものであることが認識され始めてきている、ということなのかもしれません。
3年の留学は、戻る本流が存在しないのですから、自分があけた扉に続く世界を本流として歩むことになります。
1年であれ、3年であれ、大事なことは、今、この瞬間に、自分の全部が投入されていることです。101%の自分でもなく、99%の自分でもなく、100%の自分で毎日を過ごすことです。100%は努力の目盛りではありません。偽りのない自分、真剣に自分を見る自分、自分のあるべき姿、自分の存在に100%忠実であるかどうかということです。つまり、自分の目と心を全開にしているかどうかです。
過去に煩わされるのでもなく、未来を心配するのでもなく、今、ここにいる自分と環境を100%自分のものにすることです。それは、自分だけにしかできないことです。
それができて始めて、努力が必然的についてきます。結果も、当然、ついてきます。将来の選択肢も広がります。
英語は、10ヶ月も経てば、誰でも日常の生活は苦労することなくこなすようになります。
企業が必要とする基礎的な英語での手紙を書ける生徒もいます。ハリーポッターの原書を何冊も読んだ生徒もいます。ニュースで起る世界のことを英語で議論できる生徒もいます。各種のエッセイを簡単に書き上げる生徒もいます。見解の相違を述べながら自分の見解を論理的に展開することがエッセイの中でできる生徒もいます。
年も終わる頃になれば、オーストラリアの生徒たちと競合する選択授業で、ICETの生徒がクラスの平均点を超えることは決して稀なことではありません。クラスのトップに踊り出す生徒も時には出てきます。
その成果は、当然、賞賛にあたいします。数値が高いから、技術があるから賞賛にあたいするのではなく、その生徒たちが意識的な自分との戦いを1年続けてきたことが立派だからです。そして、その結果が「数値」を伴うものであり、社会で高く評価されるものであり、それによって、これからの選択肢もさらに大きなものとなります。
では、これが、「留学の成功」と呼ばれるものなのでしょうか。これは、ひとつの側面でしかありません。
高校生として、その人間性を高く認められるのは、数値を出すだけでなく、そこまで付けてきた知的な高い能力を自分の仲間とシェアできるかどうか、優越意識を持つのではなく思いやりを示せるかどうか、他の人々と一緒に学習する姿勢を示せるかどうか。学校の中の行事に参加し、そこで、仲間と一緒にいろいろなことを組織し、できるだけ良いものに創り上げていけることができるかどうか。社会の中で信頼を置かれているかどうか。オーストラリアの人々との交流を進めているかどうか。文化や人種によって自分が上になったり下になったりするのではなく異文化の人々を同じ線上で見ることができるかどうか。
この姿勢があって、始めて、「成功」となります。
一方、選択授業の内容の理解に最後まで苦しむ生徒もいます。エッセイがなかなか書けない生徒もいます。なかなか本を読めない生徒もいます。留学の入り口で英語の発達が初期的なものであれば、1年間が基礎知識をつけるだけで終わっても仕方のないことです。言語学習は積み重ねであって、軌跡は起らないからです。それなら、この生徒たちの留学は、成功とはみなされないのでしょうか。
その生徒たちの、1月からの粘り、がんばりぶり、たたかいぶりは、涙ぐましいものです。結果ではなく、その過程そのものが、高い数値での成果を修めた生徒たちと同様に、大きな賞賛にあたいします。英語力をつけることには苦労しても、1年間、学校行事でがんばり、すべてのことにベストを注ぎ、地域の活動やスポーツで交流を深め、違う国の人々といろいろな形で理解を試み、ホストファミリーに溶け込んでいる姿勢は、惜しみない賞賛にあたいするものです。本当に誇っていいことです。(あと必要なのは、「自信」だけです。象さんになってしまわないために)
この姿勢こそが、それぞれの人生を充実したものに導くものだからです。その姿勢こそが、社会に、世界に貢献できる礎となるものだからです。そして、民族や文化や歴史で人を拒絶してしまうのではなく、たったひとつの地球上で未来に向けて人類をつなぐ唯一の希望を託せるものだからです。
これが、「成功」でなくして、何なのでしょう。