心
投稿日:2012年3月18日
昨日は、two mindsの話しでした。
対立する感情や心の動きは、人間が誰でももっているものです。
チェロキーの酋長は、善い狼、邪悪な狼として、人間の様々な感情を、善と悪に分けています。
宗教にも、片方は神の教えに沿う善いものであり、もう片方は地獄に落ちる邪悪だとするものがあり、いろいろな哲学的・心理的な書物にも、片方は肯定的で建設的な感情及び考え方であり、もう片方は否定的で破壊的な感情及び考え方であると、分類するものがほとんどです。
それ故に、邪悪なものを捨てなければ、幸せにもなれないし、善い人にもなれない。建設的な生き方もできない、と片方の全面否定を行い、そして、取り除くことに努力を注入します。
でも、本当に片方は善で、もう片方は邪悪なのでしょうか? 誰がその判断をするのでしょうか。
昨日のチェロキーの狼がたとえとして持っている愛、平和、正直、誠実、尊厳、誇り、優しさ、思いやり、惜しみなく分け与えたい気持ち、感謝、勤勉、怒り、嫉妬、妬み、嘆き、誹謗、自分だけがかわいそうだと思う気持ち、不誠実、嘘をつく、自分勝手、驕り、劣等感、優越感などの資質は、人間の誰もが、生活のどこかで、人間関係のどこかで、人生のどこかで、何度と無く、繰り返し、感じることではないのでしょうか。
誰もが、心のどこかにもっているものであれば、それをどうして、善、邪悪と決められるのか。むしろ、決めてしまうことによって、そこから心理的に受ける影響のほうが、そうした気持ちを持つこと自体よりも大きいのではないかと私には思われます。
その評価や判断が、一般的にも、宗教的にも存在するがゆえに、そして、それが主流であるために、こういう気持ちを持つ自分はダメ、こういう気持ちを持つ自分は悪者、こういう気持ちを持つ自分は弱虫、こういう気持ちを持つ自分は失敗者、というような、最終判断を自分の中でしてしまう方向に自分自身でもっていってしまう人々が多いのではないかと思えるのです。
どんな気持ちも、それが明るいものであっても、暗く沈むものであっても、楽しいものであっても、悲痛なものであっても、生きている限りは、いろいろな気持ち、いろいろな状態に自分の心が遭遇することは避けられず、それは、みな、人間一人ひとりが持つ面のある特定の面がある時に飛び出し、また、別の時には、別の面が飛び出すだけのことではないかと思うのです。
ということは、人間の誰もが持つものであれば、それが飛び出してきたときに、その心に自分が向き合ってみることが大事になってきます。邪悪だと思うからこそ恐怖を抱き、不幸にするものと考えるからこそ見もせずに追い払おうとし、自分が後ろ向きになって逃げてしまうのがオチであり、それと向き合うことを敢えて避けてしまいます。
心の奥に閉じ込め、長年知らん顔したり、蓋をこじ開けそうになる感情に恐怖を覚え、不安に駆られ、無理やりに自分を別の方向に叱咤激励し、やがては、支えきれなくなった体が悲鳴をあげたり、壊れてしまったり、健全な機能を失ってしまうようなことになります。
だからこそ余計に、自分が、そして、人間の誰もが持っている面であるならば、それがポッと光を当てて欲しいと飛び出してきた際には、正面から向き会うことが大事なのでしょう。それによって、取り払うのではなく、自分の一部として、怖がることなく受け入れることができます。
そうすることによって、自分の心と考えと言葉の3つを一線上に置くことができます。
心を、体裁とか対面とか、プライドとか誇りとか、能力とか期待とか、こうあるべきとかといった枠や形で考え支配しようとするエゴに征服されることなく、心が歌うメロディが自然に流れ出るのに任せた言葉が発せられる時、人間は、本当に穏やかな気持ちでいられるのではないでしょうか。