The Hyde Park Barracks 2
投稿日:2012年3月24日
明日一番最初に見学する博物館の説明です。
以下は、Barracksのサイトに掲載されている情報の邦訳です。
バラックスについて:
ハイド・パーク・バラックスは、囚人の男の人たちと少年たちを住まわせ、衣服と食べ物を支給するために1819年に建設されました。
この印象的なレンガの建物は壁が二重になっていて、シドニーの歴史に満ちたMacquarie St.の最初にあり、自身も囚人であったフランシス・グリーンウエイによって設計されました。
1848年以降は、建物の中心部は新しく移民として到着した女の人たちの寝所として使用され、その周りの建物も政府の役所として使用されるようになりました。
1862年には、貧しい女性たちを保護するために上層階に別棟が加えられ、それ以後、この建物は、the Hyde Park Asylum(避難所・保護施設)という名前で知られるようになりました。
1887年に、シドニーでは、大英帝国女王クイーン・ビクトリアの戴冠50周年が祝われ、その際にたくさんの公的な建物や記念碑が建造されました。ハイド・パーク・バラックスは、その時から、政府の役所の中枢となり、Chancery Square(法廷広場)という名前になりました。
1970年後半まで、公務員、法にかかわる人々、訴訟にかかわる人々とそれを収容する場所が複雑に増え続ける中、何千人という人々がこの薄汚い建物を使用してきました。The Hyde Park Barracksは、その歴史を語る博物館になっています。
囚人たち:
1819年から1848年の間に、約5万人の囚人の男の人たちと少年たちがこの「バラックス」を通過していきました。大方の囚人は、物を盗んだとして大英帝国の裁判所で裁かれ、7年または14年の刑を受けた人々です。良い行いをした囚人や、役に立つ技術を持っている囚人には、それに対しての報酬や恩典やもっと責任のある地位が与えられたりしましたが、ここでの生活は厳しいルールと制裁、単純な重労働が定型でした。
「バラックス」にいる囚人は、毎日招集され、町の周りにある仕事場まで歩きました。グループとなって、シドニー初期の波止場や道路、教会や病院、石切り場や橋、要塞などの建設に従事しました。彼らが使う道具や用具、彼らに支給される食事や衣服は、修繕、織物、パン焼き、帽子作り、ガラス切り、園芸、車輪製造、家作り、かぎ作りなどの技術を持つ囚人たちの手によって賄われました。
1830年からは、ここで定期審理法廷が開廷されるようになり、囚人と雇用主は、問題があれば告訴し、各種の懲罰が判事によって下されました。罰の中には、残酷な踏み車、ムチ、鉄の足かせ、独房、遠いところでの道路工事の従事などがありましたが、そのうちの最悪なものは、Cockatoo Islandに送られることでした。
(注)The Hyde Park BarracksもCockatoo Islandも両方とも、囚人の歴史の1ページを示すものとしてUNESCOの世界遺産に加えられています。Cockatoo Islandは、シドニー湾の中にある島です。
この続きは、また明日に。
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以下は、ユウイチ君からの寄稿です。
「オーストラリアに来てから改めて自分と向き合えるようになってきたと思います。日本での自分は、こんなもんで良いかとか、そんな適当な感情でした。しかし、改めて外国に来て、適当ではこっちの生活がよくおくれないと思い、危機感を感じるようになりました。
オーストラリアに来て、日本がどれだけ恵まれているのか分かりました。
あと、オーストラリアに来る前に分かっていたんですけどバドミントンがさかんではないことを…
しかし、早くオーストラリアのバドミントンチームに少しでも早く入り、世界のプレーに触れ、そして、日本に居る同期のバドミントンプレーヤーを見返したくなりました。
元々、私は英語があまり好きではなかったのですが、何とか頑張っていけています。ホストファミリーもよく色々な所に連れて行ってくれるので、家での生活は楽しいです。」 by Yuichi