評価とは
投稿日:2012年4月8日
生徒たちと興味深い会話をしました。
もともとは、少しいたずらが過ぎたことや普段の本題からそれてしまう姿勢について反省を促すための数人の生徒との話し合いのはずだったのですが、会話の中身は、思わぬ方向に進んでいきました。
「先生たちにとっては、どういう生徒がいい生徒なのですか」という質問が出てきました。
たまたま、学期の最期になり、授業中の姿勢や授業に臨む姿勢についての評価が出たばかりの時でした。
最初に自己評価をした後で、英語を教えてくださる先生たち全員のまとまった評価が渡されました。自分が下した評価と先生たちからの評価の比較のみならず、仲間同士でもそれぞれに比較し合ったようです。誰が、どの項目は、どういう評価だったということをとてもよく知っていました。それを不思議にも思っていたようです。
「元気が良くて、積極的に何でもするけど、時々、問題を起こす生徒と、問題は起こさないけれど、静かで特に何もしないし、授業中でも意見も言わない生徒と、先生はどちらを高く評価するのか」という質問が続いて飛んできました。(時々、問題を起こす、という姿勢については、後で触れます)
「評価は、ひとつひとつの項目であり、人に対しての評価ではない。それぞれの生徒一人一人がどの項目においては、きちんとした結果を出すことができ、どの項目においては、注意、努力がもっと必要であるかを示すもの。生徒の誰が誰よりもいいということは評価できるものではない。なぜなら、みな、違うから。人と人を比較するのではなく、それぞれがTOPに合わせた行動ができること、そして、その行動に熱意があることが大事であり、先生たちは、その姿勢を評価する」ということを伝えました。
「でも、先生たちは、右(5段階があり、右が一番きちんとできていることを示す)にたくさん丸がついている生徒が良い生徒だと思うのでしょ?」と再び比較しての質問。
「いいえ。これは、人を評価するものではなく、行動ができているかどうかを評価しているだけ。生徒は、それぞれにみな違い、それを誰が誰よりいいなんて、比較ができるわけがない」ということを何度か違う角度から説明を試みました。それぞれの項目は、学習を上手にする上でとても大事な姿勢を示したものです。
そんな話を繰り返しているうちに思ったのは、生徒たちが評価ということに関して極めて敏感である、ということです。
生徒たちは、何か照合できる基準を求めているのか、それとも自分が比較されていると感じ、それならば、他の生徒を見て、自分が思うその生徒の姿勢に対して先生たちが思うことと一致しない場合に、それをどう判断すればいいのかを知りたいのか。あるいは、自分がなぜそう評価され、友達は別なふうに評価されているのかを理解したのか、特に同じ項目で違いがある場合には。
いずれにしても、評価されるということに関して、いろいろな思いを巡らせているのだとひしひしと感じました。
さらに、「評価は、なんのためにするのですか?」「誰のためのものですか?」という質問もありました。
これについては、こんなふうに答えました。
「体制とか社会の中にあっては、ある一定の基準に即して、姿勢がどの程度のものであるかを照らし合わすことによって、自分をより知ることができるので、生徒にはそのため。すでに上手にできていることは自分の強み、自信であり、できていない部分は、これからの努力目標。英語圏に来て、日本とはまた別の評価の基準があり、評価の目があるだろうから、余計に、その結果を吟味してみる必要がある。そして、日本では、ご家族も学校も、生徒が留学先でどのように過ごしているかを客観的に示せるものがあることを期待されている。」
「評価」ということに関して、私自身常に考えている身である故に、生徒たちのこの会話はとても意味深いものであり、さらにまた考える機会となりました。
その後は、また、別の話題に入りました。それは、この次の回でお話させていただきます。