時間
投稿日:2012年5月28日
昨日訪れた近代美術館の展示は、「時間」に関するものでした。
ひとつは、様々な映画の中で時計や時間が強調されている部分だけを抜き取り、Chritian Marclayという人が繋ぎ合わせて制作したフィルムのコラージュでした。もうひとつは、「時間を刻む」とでも訳せばいいのか、’Marking Time’という題で、様々な作品が展示されていました。
とても印象に残ったのは、太極拳の動きを映像でさらにスローモーションにし、そのひとつひとつの動きを映像に残しておくことで、まさに「気」が動いているような印象を出している作品でした。エネルギーというか、「気」というものを目で見えるようにしたらああなるのかと、思わず魅入ってしまう作品でした。時間のズレが、特殊効果を生み出し、普段見えないものがあたかも形で見えるようになった「時間」のいたずらです。
私たちの精神にも、時間が経ち、時間のズレがあることで、物事に対する認識の変化が起こります。対象が同じものであっても、昨日の印象と今日の印象では、そこに24時間が入り、24時間の体験と知恵が入ることで違ったものとなってきます。
時間とは一体なんだろう、と考えさせるのがこの展示会の主旨だったのか、勝手に何でも感じればそれでいいのだ、というものだったのかはわかりませんが、ともかくも、「時間」というものについて考えることになりました。
私たちの生活は、すべて時間で仕切られています。朝遅刻してくる生徒は叱られ、授業は決まった時間で成り立ち、ある時間が来れば物を食べます。早いとか遅いとか、長いとか短いとか、時間による感覚に支配されます。時間がなければ、社会の機構は全く機能しません。
留学も1年という時間で区切られます。
時間の観念を意識するしないに関わらず、私たちは、時間というものに自然に支配されています。これに逆らおうとしたら、無責任というレッテルを貼られるか、取り残されるか、極端な場合には、社会から逸脱することになります。
そうなると、それに束縛されたり焦れば時間に支配されることとなり、意識的に有効に使えば時間を支配することになりそうです。
どうすれば有効なのか、何が有効なのかは、目的によって異なります。生徒たちの場合であれば、留学が1年と限られている中で、その目的にあった最も有効な時間の使い方をすることが、自分が時間を支配することになります。
200日を切ったという留学の「時間」。それぞれの生徒が、どのように使っていくのでしょう・・・