知識は求めるもの
投稿日:2012年6月7日
生徒たちの話しの中には、たくさんの示唆があり、「解答」があります。
IETLSの試験のreadingは、「天体」の話しであり、惑星の名前がたくさん出てきたとのこと。
「英語力だけの問題ではない。どのくらい知識があるかが大事」
「あんなこと普段やらないヨ」
「中学のときにやったよお。でも、勉強しなかったな・・・。しておけば良かった」
「新聞読むことが大事だって、今日、始めて思った。本当に思った」
「いつも関心持って積み上げていかないといけないんだよ」
生徒たちの言葉を聞いていると、そこに解決策まで出ているようです。
周りが何を言っても、本人に気付くところがなければ、馬耳東風。さあ、今、こういう気付きがあったところで、それが毎日の行動や学習にどう出てくるか・・・
日本は、知識を与える教育をします。統一した一定の知識を万遍なく与えることで一定の知的レベルの人間を生み出すことに重点が置かれています。だからこそ、識字率ほぼ完璧に近いような結果を出すことができます。そうした環境の中で優れた点数を修める人たちもいれば、生徒の関心、集中力、記憶力に集中的に頼る学習の中では、点数を上手に取れない生徒もいます。
オーストラリアは、知識を求める姿勢を作る教育をします。学習は、本人の責任である、という教育です。
もちろん、小学校の頃にはいろいろな体験をさせ、その体験の意味やそこから得られる知識の応用を考えさせ、自分の意見を表明させ、小さな頃から自己の確立を図っています。
学習は自分の責任であるという考え方は、ハイスクールになると現実のものとして先生たちの姿勢にも組み入れられてきます。自主的に求める生徒はどんどんと伸びていきます。義務教育が終わると、国の公用語である英語を除き、すべての教科が選択できるようになるというのは、生徒の自主性、そして、個性を伸ばしていく考え方の最たる現われです。
子どもたちが自由にのびのびと自分の学びたいことを学んでいくという環境は、人間を卑屈にしません。
先日10年生の音楽を選択している生徒たちのコンサートがあった際に、すばらしい弾き語りの演奏をした豪の生徒を見てあるICETの生徒がこんなことをつぶやきました。
「数学の時間はぐうたらしていて、なんていう生徒かと思っていたけれど、見直した。こんなすごい奴だったなんて・・ この演奏はすごい。こんなことができるのは尊敬する」と。
オーストラリアで高い点数を目指して階段を登ることに重点が置かれ始めたのは、比較的最近のことです。2年前に各学校が成績をネットで発表する政策が取り入れられてから、学校の教育現場はガラリと雰囲気が変わりました。
各学校からの大反対があったにもかかわらず、政府は、これを導入しました。これからどういうふうに変わっていくのか、カリキュラムにもその変化は徐々に現われていくかもしれません。でも、先生たちが相当なプレッシャーを抱え始めていることは確かです。
日本から来た子どもたちが、与えられたものをしていればいいという姿勢から、自ら求める姿勢に移行するまでには少し時間がかかります。
こなせばいいという姿勢から、自分の最高の努力、最高のでき、最高の資質、最高のクオリティを放つ姿勢に至るには、もっと時間がかかります。
すでにそうした姿勢を持っている生徒たちは、実に落ち着き、上手な学習を展開し、中身の深さをじっくりと見せていきます。
自分から求める必要があることに今気が付いた生徒たちは、人生の宝物を得たようなものです。その姿勢こそが、自分の未来を自分で作っていくことを可能にするからです。