社会が課す期待
投稿日:2012年7月8日
社会のルールは誰が決めるのでしょう?
中世ヨーロッパの歴史に触れると、宗教が支配的な役目を果たし、死に対する「恐怖」が社会全体の動きを呪縛のように縛り付けてしまっているように私には感じられます。
現代社会の模様を眺めると、どの国に住んでいるかによって社会全体で期待されているものは大きく違います。
たとえば、日本は、明記されていない暗黙の社会的な「常識」が人々の意識の中に深く浸透しています。本音と建前が上手にくるくると回りながら、秩序ある社会を構成しています。
私 が20代に住んだメキシコでは、カトリックの教義が人々の生活の根底の規律(形の上では)を支配しているように生活上のいろいろな場面で感じたのですが、 道徳に関しては、とてもおかしいものがたくさんありました。誰が発したものか、「不幸にも車で事故を起こしたら、すぐにその場を逃げ、弁護士のところに行 け。へたに助けようなんて思うな」という指令が日本人の間にまわっていました。つまり、社会全体が日本人が思う倫理や道徳、あるいは、法ではまわっていな いということの表れでしょう。
一方通行ではないところで一方通行だと言い張り、ポケットにあるだけのお金を出せば放免してやるという警察官。果ては、今晩のpartyに来ないかというお誘いまで出てくる。こうしたことは、メキシコという社会の暗黙の理解でしかわからないことです。
オー ストラリアのらくなことは、暗黙のルールというのがあまり無いことです。書いてあること、言われていることは明白。それ以外は、比較的個人の自由の余地が かなり広くあります。自分の世界に介入しなければキミの世界にも介入しないよ、という。しかしながら、これは、シドニーのような都会での話し。田舎に行っ たら、話はまったく違います。そこでは、暗黙のルールというよりは、誰が社会的な力を持っているかによって、その人たちの言語や期待が地域社会全体を支配 するようなことも起こります。
そうしたことは、国といわず、人間に特有なことなのでしょう。
では、2012年にティーンである子どもたちは、「社会の期待」をどう感じているのか。その前書きが長くなってしまいましたので、それは、次回に回し、今日は別のことについて。
昨 日ある卒業生がシドニーを去りました。シドニーで17年の年月を数えました。人生の大事なことについてたくさんの話をし、人生の大事な場面を共にすること が多かった17年です。共に考え、共に学び、共に成長した月日です。私は、彼女から(そして他の多くの卒業生と保護者からも)たくさんの人生の大切な贈物 を受けました。
私の成長は、彼らあってのものです。
ICETの留学プログラムが20年を越えた今でこそ、私はブログで毎日偉 そうなことを言っていますが、彼女が留学していた高校生の頃は、まだ、留学プログラムが本当に歩み始めたばかりの頃。私もヨチヨチ歩き。例えば、これをし たらこうなるよ、という明記されたルールがあるのに、それが守れない生徒がいれば、私には、なぜ守れないのかさっぱりわかりません。なぜ、そんな分かり きったことができないのか・・・ 私の理解はそのレベルでした。
その裏にどれほど複雑な心理があるかなど想像もつかなかったのです。
そんな私を先生と呼んでなついてくれた高校生たち。彼らからどれほどたくさんのことを学ばせてもらったか。
何人かしっかりとした生徒たちがいて、他の生徒たちの面倒を見たり、私にアドバイスをしてくれたり、一生懸命にプログラムを育てようと支えてくれました。昨日シドニーを去った卒業生は、そんな生徒の一人でした。
1年間異国に暮らした高校生が自国に戻ることが極めて難しいのですから、17年の空白の後の帰国はとても大変なことだと思います。その目的の重要度に拠らず。
先日も久々に便りのあった生徒に、このプログラムを作ってきたのは卒業生たちであり、今私があるのも彼らのお陰あることへの感謝の気持ちを述べたばかりです。
卒業生たち全員に心から感謝する毎日です。17年ぶりに旅行者ではなく日本の住民となる彼女に心からの感謝と祈りを、そして、たくさんの愛を送ります。