数値の怖さ
投稿日:2012年7月19日
人間は、どうやら基準というものが無いと生きられないようです。
すべての事柄に基準があります。基準は、時に名前が変わります。法律、条令、ルール、常識、暗黙の了解、掟、義理、礼節、儀礼、礼儀作法などなど、すべて世の中のありようを定める基準です。
これに従わないと、犯罪人にもなれば、常識はずれにもなります。温情を知らない人間にもなれば、組織に属せない人間にもなります。
こうした基準は、学校にもあてはめられます。1から5と定める数値をあてはめられ、5をもらえば優秀と言われ、1をもらえば、どうにもならないと烙印を押されます。
以前、メルボルンで開催された教育国際シンポジウムに参加しました。ソロモン諸島の教育大臣がこんな話をされました。
「私 たちの島では、子どもたちの教育は教会と地域全体の人々の仕事だった。身体が大きく強い子は、身体の弱い子や障害を持った子を助け、どの子も社会全体に同 様にとても大事な子だった。ある時西洋からやってきた人々が学校を建てた。そこでは、子どもたちが、数値で測られることになった。初めて、島の子どもたち の間に格差が生じ、差別が起きた。それからは、子どもたちが平等に戻ることはなくなってしまった。なぜなら、島民の間に格差の意識が生まれてしまったか ら。」
この話は、私の脳裏に深く刻み込まれました。
人間に数値を付けるということの重みをどっしりと感じたからです。その重みは、価値あるものという重みではなく、受け入れがたい理不尽さの重みです。
人間の存在そのものも、人間の体験することの偉大さも、人間が学ぶことの無限の大きさも、人間の心の深さも、人間の体の神秘も、計り知れなくすばらしいものであり、それを数値で測るなどということがあまりにも無謀で、意味のないことだと思うからです。
でも、学校というシステムでも、社会というシステムでも、測ることをするのです。学校は文部省かどこかの機関か学校自体の誰かが定めたテストというもので、生徒のできばえを測るのです。
そして、この生徒はこの数字、この生徒はこのでき、この生徒はこれができるできない、と烙印を押すのです。
恐 ろしいのは、烙印を押される生徒もそれを信じ、周りの人々もそれを信じることです。そんなものは、その人の人間としてのすべてを測るものでもないし、誰か がどこかの役所か大学の中で作り出した基準など、そんなものはたったひとつのものさしでしかないのに、それが絶対的なものさしだと信じてしまうことです。
でも、それが組織化され、社会に浸透してしまっているために、ほとんどの人間はそれに従うしかない状況に置かれ、そのものさしの上位に達するために必死の努力をすることになります。競争という名のもとでは、それをしないと、社会の中での選択肢を狭められてしまうからです。
留学に関しても同じことが言えます。外国に住み、違う言語の中で生活し、母国語ではない言語で学習し、違う言語を使って人々と交流し、異国において自分の住み心地のよい場所を築いていることに数値は付けられません。でも、英語の学習には数値が付きます。
何が起こるか・・・・
生徒も周りもその数値を絶対的なものとして受け止めるのです。それがあたかも自分の価値そのものであるかのように。その数値で、他のすべてのことを判断してしまうという罠に落ちるのです。
なんと哀しいことでしょう。
でも、それがシステムなのです。では、そのシステムにどう打ち勝てばいいのか?
自 分のベストを注入するということです。それが何であっても、自分の手を染めることに自分の最善を尽くすということです。そこには何の迷いもないはずです。 それを楽しみ、そこに充実感を感じ、そこに魂を入れることができれば、結果は自ずから自分のベストであり、それを心から認める自分がいるはずです。
他 の誰も、どんなシステムも測ることのできない自分がそこに存在します。それを受け付けないシステムであれば、違うシステムを探せばいいのです。自分が生き る、自分を活かせてくれるシステムを探せばいいのです。あるいは、そんなシステムを自分がいつか創り出すことができるかもしれません。
留学の成果は、数値などで測れるものではありません。英語の技量だったら、それを測るテストもあるかもしれません。でも、それですらも、ある日の断面を切り取ったものであり、全体的に本当の力が測れるものではないのです。
留学生たちにしっかりとわかって欲しいことは、成績表はあくまでも指針、アドバイスであって、自分の価値を判断されているものではないということ、そして、大事なのは、自分の姿勢がどうであるかということです。
常に一生懸命挑戦してきているのであれば、それを誇り、自慢すべきです。自分を褒めるべきです。
一生懸命してきていないのであれば、成績の如何に関わらず、それは自分への侮辱です。自分の人生を大事にしていないということです。
後半をどう過ごすかは、すべて自分の考え方次第、行動次第です。そこに、自分のベスト、最善かあるかどうかという。