ある一線
投稿日:2012年8月1日
誘惑と責任は、ある意味ではコインの裏表です。
誘惑には、何か妖しげなでも不思議な魅力があるように思えます。一方、責任という言葉には、何か重たいものがあるように感じられます。どちらも、なんとなく、なのですが。
一 見、楽しいようで、甘いようにみえ、でも、誘惑には必ず落とし穴があるから、「誘惑」なのです。誘惑のために、人生をダメにしてしまった人、成功から失敗 のどん底に落ちてしまった人は、世の中にいったいどのくらいいるのでしょう。また、誘惑に勝てないために、極めて恵まれた環境にあっても自分の夢を成し遂 げられなかった人は、どのくらいの数にのぼるでしょう?
スポーツ選手にも、政治家にも、警察官にも、官僚にも、その誘惑のために身を滅ぼすケースは、ニュースによく出てきます。
それは、みな、決して越えてはならない線を越えた結果です。
一方、責任は、ここの線まで満たさないと、自分のしたいことが成就できなくなるよ、人からの信頼を得られないよ、他の人との協調が上手にできなくなるよ、全体に向けての貢献ができないよ、という線を示すものです。
誘惑は越えてはならない一線があり、責任は満たさなければならない一線があります。
責任を果たさなければならない時に誘惑に乗ってしまえば、責任は果たせないかもしれません。誘惑に乗っても、ある一線で踏み留まり、責任を果たすことに意識を戻せば、責任は満たすことができます。
どこに、その一線があるのかを見極めることがとても大事です。
そして、子どもたちは(往々にして大人もですが)、大人になる過程で、そして、日本の文化から西洋の文化、しいては、グローバルの社会に移行する過程において、この線がどこにあるかを試行錯誤を繰り返しながら見つけていきます。
過去16年間にいろいろな場で、この線がどこにあるかをしっかりと教わり、体験し、学習している場合には、国が違っても、文化が違っても、線を見つけることはあまり難しくはありません。
逆に、今までの16年間にこの線がどこにあるかをしっかりと学習してきていない場合には、線を見つけることは簡単ではありません。留学の1年が、過去の16年間に代わるものになるのは、やはり相当な意識的な努力を要します。本人も周囲も。
でも、これは、留学に出てきたからわかることなのですね。それだけで、半分成功したようなものです。意識が生まれれば、改善への努力も出てくるからです。