情報と知識
投稿日:2012年8月7日
私たちは、たくさんの情報に囲まれています。
情報が無ければ、生活していくことはできません。お母さんのお腹の中にいる時から、お母 さんの声を聴き、音を聴き、その音が生活の中で徐々に形と結ぶ付き、意味を成すようになり、話すこと、読むこと、書くことを覚え、やがて情報が知識とな り、その人のなりを成す知性となっていきます。
昔の情報源は限られていました。本、新聞や雑誌、そこにラジオやテレビが加わりましたが、それでも情報源になるものは限られていました。情報源が限られているので、情報を統率したい国家や人々にとっては、ある程度、それが可能でした。
PC が導入され、インターネットが無限大の世界を作り出した今、情報は、ありとあらゆるものが氾濫しています。情報を得ることも、発信することもまったく自由 です。害を及ぼすことを最初から意図したものでさえも、必ずしも正体がばれたり、罰せられたりするわけでもありません。基本的には善意と鑑識眼に頼るもの です。
自由に流れる情報によって、エジプトのように、そして、それに続いた国々のように、時の政権が崩壊する事態に発展していく場合もあります。
破壊的なゲームという形で、独りでいる時間を狙って脳に攻撃をしかけてくる情報もあります。幼少からゲームで冒されてしまった脳には、情感や倫理が入り込む余地はなくなるようです。
氾 濫する情報から、どういう情報が正しいのか、何をどう解釈すればいいのか、何を意図している情報なのか、誰が発信しているのかなどを自分で読み取らなけれ ばなりません。情報を正しく見極め、情報を上手に利用できる能力をメディア・リテラシーという言葉で呼んでいますが、メディア・リテラシーを発達させれば させるほど、健全に情報とつきあうことができ、情報に支配されてしまうのではなく、情報を管理し、自分の生活に上手に活かすことができます。
例 えば、イスラム教徒の国々や人々について私たちが接するニュースは、ほとんどのものが英語圏で発信されているニュースです。アラビア語がわかってアルジャ ジーラ放送局のニュースを直接聞く人と、オーストラリアの例えばチャネル10のニュースを聞くのでは、同じ事に関するものでも、見方が違ったり、ニュアン スが違うのは当然至極のことです。
英語で発せられ、キリスト教的な見方に偏るニュースのみを聞いていれば、いつの間にか自然にイスラム教徒 の人々に対して偏見を抱くようになります。発信源はどこか、対象は誰か、とういう意図を持ってその報道が行われているのか、どのように斟酌して解釈すれば いいのか、といったことを常に考えて聞かないといつのまにか、疑問ではなく偏見がしみこんでくることもあります。
でも、アラビア語のわからない私のような人間は、どこから偏見のないニュースを得ればいいのか。同じ英語のニュースでも、できるだけ両面からの見解を流す放送局を探すしかありません。
別の例であれば、日本が捕鯨に関して報道するニュースと、オーストラリアが日本の捕鯨について報道するニュースは、立っている立場も、報道の目的も、捕鯨に対する理解も何から何まですべて違い、ふたつの報道は永遠のすれ違いであり、妥協点や接点などはまったく見えません。
どちらが正しいかと問えば、どちらも自分たちの主張が正しいというでしょう。その立場に立ったら、利害関係も前後関係も歴史的事実も、その立場からは正しいと見えるからです。
あとは、情報を受け止める人の判断と見解に任せられることになります。その受け止める人も、立場があり、利害があり、関係があれば、当然、それに有利な解釈をするでしょう。
留 学して、国際関係に深く身を委ねるようになれば、国家間や文化間の対立や摩擦の狭間に挟まれることは必ず出てきます。その際に大事なことは、普段から豊富 な情報を得ておくこと、さらに、同じことに関しても多角的な見方ができるようにできるだけ側面からの情報も得ること、そして、それらの情報に関してなんら かの見解を自分の中で徐々に構築していくことです。
高校生の間に、そうした国により文化により報道の仕方も内容も全く違うものだという例や観念に接しておくことは、国際的な視野を培っていくためには、極めて大事なことです。