裕福なこと

投稿日:2012年8月18日

裕福であると、人間は退廃するのでしょうか?

 裕福さそのものが退廃させるのではなく、裕福さをどう受け止め、富をどう使い、どんな精神で生活をするかが、それに伴う結果を生み出すのでしょう。

 ローマ時代から、社会が富み、文化が極みに達すると退廃するということを世界の歴史は繰り返してきています。支配層が酒池肉林におぼれ、傲慢になり、精神の堕落が起こり、利権を追うことのみを考え、その恩恵を受けたいものが群がり、賄賂が横行するようになります。

 その中で崇高な精神を抱く人々が改革に成功すれば、意識改革が起こり(時には暴力によって)また新たな文化が起っていきます。

 ゲリン氏があげた過去50年代の文化の変遷(前回参照)は、まさに、そうした移り変わりの中で、庶民がどう反応しているかの現れでしょう。

 かつては、世紀という長さで起こったことが、現在では、電波やインターネットの普及で、数年、事によっては数ヶ月という速さで起こります。

 そんな中に育つ若者たちは、何を見て、何を求めて、どう生活していくのでしょう。

 Affluenza(アフルエンザ)というのは、去年、このブログで取り扱ったことがありますが、Affluence(裕福さ)とそれに伴う観念(みんなと同じ様に物的に豊かな生活が大事。お金持ちになれば幸せになると信じている)の中にすっぽりと入り、がむしゃらに勉強し、働き、やがてそれは必ずしも真実ではないことがわかる。結果として、人々の心に空虚さと不安、うつの状態、何かへの極端な依存、怠惰などをもたらし、大局を見ることなく、本来どうでもいい些細なことに執着する状態がインフルエンザのように蔓延している社会状態を表す言葉です。

 物質的には豊かなのに、心が空虚、心が貧しい・・・

日本は、必ずしもアメリカや西欧の国々と同じ歩調で歩いているわけではありませんし、静かな国民は建前で必死に生き、危機感や閉塞感はあっても80年代に総人口の70%以上が豊かだと感じることができたその余韻の中にまだいます。でも、社会のあちらこちらにそのひずみは確実に現われています。その状況は、加賀乙彦氏の集英社出版「不幸な国の幸福論」に詳細に描かれている通りでしょう。

 「現代の時代は、実際の中身の人間像よりも、表に出る肩書きや裕福さがまるでその人の人となりを表すようになってしまっている。つまり、人間そのものが生産化、物品化されてしまっている」とゲレン氏はいいます。

 どれだけ消費できる力を持っているかが、競争で上り詰めるはしごの上にあり、何も考えずに必死にはしごを上ることだけを考え、上り詰めたら、待っているはずの幸せも充実感もそこにはなかった、ということになるわけです。

 発展途上国に支援のつもりで行ったはずなのに、貧しいけれどすばらしくすてきな笑顔と純粋で明るいエネルギーを持っている人々、精神性の高さに逆に感動し、本当の幸せとはなんだろうと考えさせられたという話はよく耳にします。

 きっと大自然にもっとずっと近いところで生活していることが、人間を謙虚にし、崇高なものを畏怖する心を育て、その厳しさの中で命の尊さを実感できるからなのではないかと思います。

「目的を持つことほど、人間の精神を満たすものはない」と言われるように、現代の喧騒の中に暮らす私たちは、あえて目的を持つことで生きる喜び、生きる意義をずっしりと感じるようになります。目的を持ったら、人間は強いです。

先日、さだまさしの「風に立つライオン」という歌を初めて聞きました。なんと感動的な歌でしょう。あの歌は、目的を持った人間の強さ、美しさを歌っています。

 http://www.youtube.com/watch?v=TTYZn1EVWl0

 金品と世間体とエゴと競争が渦巻く中で、自分を見失うことなく、自分の魂を追い求め、存在意義を感じ取り、自分の人生の目的をしっかりと定めたら、そして、自分だけにしかできない、自分だけの人生を生きたら、幸せは、そこに見出すことができるのでしょう。できるのです。

 それが自分を生きるということです。でも、怖いのですね、その自分を生きるということが。

人と違ってしまうのではないかということを恐れるからです。元々、人はみな一人ひとり違っているのに、そのことは忘れてしまい、人と同じようにすることで仲間から外れないことのほうが大事に見えるのですね。人と同じようになんてなるはずがないのです、だって、人はみな一人ひとり違うのだから。違うことが当たり前だから。

 自分が自分であることが美しく、それが、人々を勇気付けるものなのだということを忘れてしまうのですね。

 それを取り戻すには、どうすればいいのか。

 違っていいのだ、違うのが当たり前なのだ、違うことが魅力なのだ、自分は自分、自分は自分以外の何物でもないということを自覚し、認識し、迷う時があったら、再び、その認識を呼び起こす。最初は、そこからでしょう。

 やがて、そうしているうちに、自分が燃えるものが見つかり、勇気が出、力が出、大きな目的に向かって歩んでいる自分を見出すのではないでしょうか。

裕福という言葉の本当の意味は、物ではなく、精神の豊かさであるべきなのでしょう。

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