探究心
投稿日:2012年9月7日
先回の炭谷俊樹氏の「探求型に生きろ」の続きです。
探究心なるものは、どこから来るものなのかを考えてみました。
例えば、ダーウィンとファーブル。
この二人は、ある意味で対照的です。20年ほどのズレはあっても、ほぼ同時代に生き、二人とも自然科学に大いなる関心を抱き、後世に大きな貢献をしました。
ダーウィンは極めて裕福な家庭に生まれ、両親も高い教養を持ち、ダーウィン家のイギリスでの社会的な影響力は大きなものでした。英国海軍の探検船ビーグル号に乗り、その間の研究が後に『進化論』を生み出すことになり、英国の科学協会Royal Societyの会員に選ばれたり、死後も国葬だったりと、すばらしく華やかな人生を送り、名声は永遠に続くものとなりました。
一方、ファーブルは、フランスのプロヴァンス地方の貧しい農家に生まれ幼少時からの労働と苦しい生活を強いられ、学校に行くこともままならないことが多かったようです。独学で勉学することが多く、働きながら自分の研究費を生み出したり、そのために企業してみたりといろいろ苦労し、成功と失意を繰り返します。好きな昆虫や植物の観察に没頭できるようになるのは、そろそろ60歳に手が届く頃です。その結果生まれた『昆虫記』も、彼に富をもたらすことはなく、最後は極貧の中で世を去ることになったようです。
そうした苦しい環境が、ファーブルの好奇心、探究心、研究への熱意を殺ぐものになったかというと、そうではありません。彼は、ずっと、勉学と研究を生涯にわたって継続しています。
ダーウィンは、逆に、そうした極めて恵まれた環境が彼の勉学に対する熱意や探究心を失くすものだったかというと、そうではありません。恵まれた環境は、彼が情熱を燃やすことを叶えやすくしたことはあっても、彼は、その環境に甘んじてはいません。
では、二人が共通して持っていたものは何か?
尽きることの無い知識欲です。そして、関心とひらめきです。関心の中には、「楽しさ」があります。どれも積み上げがあり、内から出てくるものです。その人本人が持っているもの、積み上げているものです。
探究心は、元々あるものでは無く、いろいろなことに従事するうちに、関心を持つものが出てくる、そして、それをもっと知りたいと思う気持ちが探究心となっていきます。そして、探求するには、継続が必要です。
先日、『鬼古里の賦』という本を頂戴しました。著者は、俳人歌人名川村杳平(ようへい)氏です。他にも、『羽音』や歌人大西民子の生涯を語る『無告のうた』などを出版されています。文学に尽きない想いを抱いて生涯を送った啄木の出身地である盛岡で執筆活動をされています。
『羽音』を読ませていただいたときもそうでしたが、今回の『鬼古里の賦』もページを開くと、そこには、まるで、澄み切った北の夜明けの空に研ぎ澄まされた純粋な鈴の音色が響いてくるような言葉と文体で日本の文化が語られています。首筋がゾクゾクし、肌に何かが走るほどに、そこにある言葉は美しい音色を奏でています。専門的な内容なので、知識のない私が読み取れるものは、著者が意図されるもののほんの一部を表面で撫でているだけのまさに豚に真珠の状態でわからないことだらけなのですが、でも、どっしりとそこに詰まった日本文学の研究は、何年何十年という地道な研究がなければ決して成り立たないものだということはわかります。ここにも、従事、関心、ひらめき、探求、継続が凝結されています。
勉学も全く同じです。ICETで英語を教えてみえる先生方は、生徒が、「もっとください」とさらにたくさんの宿題や課題を求めてくると興奮します。これを添削して欲しいと生徒が書いたものを持ってくれば、喜んで時間を注入します。それほどに、生徒のやる気、知識欲は先生たちの心を燃やすものであり、それを支援するための時間は惜しいどころか喜びに変わります。生徒たちが自分たちが研究したいテーマ、課題、事柄があって、どこで入手できるのかを知りたい、どのように調べられるのか、何々の資料が欲しいなどと言ってくれば、私も興奮します。
それには、言われたことだけをする、やらなければならないことをするという受身の勉学方法、姿勢からの大きな脱却が見えるからです。自主性、すなわち、その生徒本人が何かに真剣に従事し、関心を持ち、さらに知りたいという知識欲、探究心を持ち、様々なひらめきがくすぐられていることを意味するからです。
学びは、なんて楽しいのでしょう!!
そこから創造するものが出てくれば、もっと楽しくなるでしょう。