表現の仕方

投稿日:2012年9月9日

ウラジオストックでAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が開催されています。

そこで取り上げられる話題ではなく、オーストラリアの首相のことについて今日は取り上げます。

他のどの国とも変わらず、オーストラリアも政治・経済問題が山積みです。ねじれ国会でもつれもつれの状態の中で、この女性首相は、野党からも国民からもたたかれ批判されながらも、常に背筋を伸ばして堂々と演説し、重要な政策課題を実現させてきています。

その最たるものが、二酸化炭素を発生させる生産物に税を課し、その税金で将来の代替エネルギーやエコ政策を実践するという「カーボン・タックス」の課税制度です。成立に向けての戦いはまさに壮絶なもので、政策の内容の賛否に関わらず、あの強さは一体どこから来るのだろうとよく不思議に思い、そして、感動することがしばしばあります。

日本の政治家は、記者とのぶらさがりインタビューと選挙演説以外は、書いたものを読んで演説することが多いのですが、ギラード首相が書いたものを読んでいる演説の場面など見たことがありません。紙を置いていることはあっても、目はいつも聴衆に向けられ、聴いている人々の耳に、頭に、心に、直接訴えてきます。その表現力がまた実に豊かなのです。

強烈な反対があっても、「この国の教育レベルを世界の5位内にあげるのだ」と教育制度の改革もあれよあれよと言う間に具現化されてます。学校現場では混乱が起こることがたくさんあるのですが、それでも、改革は着実に実践項目として浸透していきます。

そのジュリア・ギラード首相がAPECに向けて経った翌日、「首相、急遽帰国」というニュースが流れました。ウラジオストックでの時間は、本当に短いもので、ほぼとんぼ返りの状態でした。議長を勤めるプーチン大統領が、「ギラード首相のお父上の逝去に関してお悔やみを申しあげる」という場面が出ていました。

「父は私の力の源泉でした。父は、何事も必死の労力無しに成し遂げることはできない、といつも言っていました。そして、私は、それをずっと信じて何事にも向かってきたのです」という帰国に関してのコメントと、生前お父さんが「ジュリアは、いつの瞬間も私の誇りだ」と述べている報道がありました。APECを蹴って帰国したギラード氏の決断もさることながら、すばらしいのは、オーストラリアの国民たちの反応です。いつもあれだけ、首相の政策がたたかれるのに、この帰国に対しての批判は、メディア関係者からもまた通りでのインタビューでも一切ありません。国全体が、喪に服する人間としてのギラード氏を尊重していることです。

日本の政治家にもしこの状態が起こったらどういう判断をするのだろう、そして、国民は、それに対して、どういう反応をするのだろうという疑問が過ぎりました。皆さんは、どう思われますか?

演説に関しては、なぜ日本の政治家は、話しかけるのではなく読み上げるのか、という点について私はこんなふうに思います。日本人は、言葉に忠実であり、言葉を一語一句間違いなく再現するということに視点があり、間違えるということを極端に恐れているように見えます。それは、批判が怖いということもありましょうが、それ以上に、聴いている人たちも、「言葉」を聴いているからではないかと思います。

オーストラリアは、言葉を「話す。聞く」ということよりも、「理解させる。理解する」するというところに視点があるように思えます。全体としての主旨の理解、内容の理解、言葉はそれを裏付けるためのもの、といったらいいでしょうか。

実は、生徒たちのプレゼンテーションにもこの違いが現われるのです。オーストラリアの生徒たちは、ズバーンとそこに飛び込み、内容の用意があっても、それを読むのではなく、自分の言葉で語ります。一方、日本人の生徒たちは、書いたものを用意したら最後、そこにある言葉から自分を引き離すことができず、確実に100%その言葉を再現しようとします。

英語だからでしょう、と読者の方は思われるかもしれません。英語だからではないのです。日本語でもまったく同じ現象が起こります。自分が用意したものを理解し、そこにある文字から離れ、自分の理解で聴衆に話すということができる若者は極めて稀です。そこには、用意の深さや広さも関係あるでしょうが、むしろ、理解の深さ、自信、コミュニケーション能力に関係があるのだと思います。それは、日本で受ける教育に大きく影響していると私は思います。

日本は覚えることが基本の教育です。試験も覚えたことを測るものが中心です。理解し、応用し、それに対して自他の評価や分析を加え、さらにその過程において自由な発想によるアイディアを散りばめていくようなことは、大学、いや大学どころか企業に出るまであまり重要視されません。画一的な枠の中で動くことが求められるます。それが完全に染み付いてしまっている間は、自分が理解したことを自分の言葉で表現するということは、極めてリスクの高いことなのでしょう。

世界が完全にグローバル化されている今、若者たちには、相手を理解し、相手に理解してもらえるコミュニケーション本来の能力が必要とされます。どの言語で? は二の次です。まずは、相手、周りに対して、自分がどのように表現し、どのように理解を図るのか、そして、どこまで相手を理解できるのか、それができて初めて「関係」が成り立ちます。個人の間も、国家の間も。

極めて難しいことであり、日々の努力でよりよい方法を模索し、研鑽していくしかありません。留学は、日々訓練し、その技術をできるだけ身につける期間です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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