表に出るもの出ないもの
投稿日:2012年9月24日
昨日は、南半球の春分。北半球の秋分でした。
今日から、シドニーでは少しずつ日の出ている時間が長くなっていきます。太陽の光も明るく、海も空も明るいブルーになると、自然に心が躍ってきます。たくさんの木々の芽や花も春の恵みを浴びて喜んでいるように見えます。人間も思い切り羽を広げて飛びたくなる頃です。
結果が大事か、過程が大事か。よくある議論です。求めるものが何であり、そして、どこに軸を置いて判断するかで、結果が物を言うのか、過程がより大切なのかが違ってきましょう。
このふたつはどちらが大事と区分できるものではなく、物事を上手に運ぶために、そして、自分がしたいことを成就していくために、どちらもバランスよく必要とされるものです。ちょうど、春になり、夏から秋にかけて自然界の実りがたけなわになるためには、冬という過程を土壌も草木も通るように。
言語学習も同じです。読む、聞くという作業は、収穫して自分の中に取り込む行為です。書く、話すという作業は、実りを表に出す行為です。どちらが欠けても、言語学習は成り立ちません。読むもの、聞く言葉は、そこに存在しますが、読み手・聞き手の中にどのように落とし込まれるかは、誰にもわかりません。全く見えないからです。書く、話すという表現になって、初めて表に出るもの、自分にも人にも見えるものとなります。
その間には、極めて大事な過程があります。自分の体や心の中に取り込んだものを覚え、感じ、理解し、整理し、納得し、連結させ、意味を持たせ、順序を整え、分析し、考え、構築し、また記憶してといった作業です。それを文字にしたり、口頭での言葉として出した時に、初めて実となって表に出てきます。この間の過程は、まったく見えません。おそらく、学習者本人にもなかなか明白に見えるものではないでしょう。多分、表に出すことのほうに重きがあって、過程そのものには注意が向けられないからです。
この3つが一環して、言語学習が初めて上手に成り立ちます。一環するごとに環を広げ、厚みを増し、掘り下げる度合いを深くしていくことで、言語学習の質があがっていきます。
問題は、過程と結果が同時進行するかどうかです。結果をすぐに表に出すことを得意とする人もいます。体全体、行動全体を通して吸収する過程そのものが学習であって、結果はある程度の過程を通ってからでないと表には出てこないこともあるでしょう。この過程には、自信とか、勇気とか、努力の継続とか、もともと持っている人々との交わり方における性格とか、言語能力とか、学習の体感方法とか、学習が体に刻まれていく生来の学習方法の違いとか、それこそいろいろな要素が関連します。
言語学習には、また、心とか人々との交流の好き嫌いが大きな要因として働きます。
言語を使うことに喜びを覚える生徒は、取り込んだものがすぐに道具となるので、すばらしい勢いで伸びていきます。学習を単に「学習」としか捉えず、そこに使う喜びが伴わないと、言語に羽をつけることはできません。
そうした様々な条件がすべてベストの状態で整ったとしても、留学の成果や言語の学習は、同じ生徒でも、大きく力をぐっと伸ばすときもあれば、スランプ状態に見えるときもあります。スポーツ選手にも、このスランプと呼ばれるときがあります。
このスランプ状態は、失望したり侮ってはならない時期なのです、実は。でも、自分への、そして、周りからの結果を出すことのみに対する期待やプレッシャーがかかりすぎると、この見えない本来ならとても大切な時期が否定的なものとして見られがちになり、自分をたたいてしまうことになりかねません。本人も周りも、スランプは、次に移行するための必要な大事な過程だと見ることが大事です。そこからは、必ずまた良いものが出てくるでしょう。新しい発想や新鮮なエネルギーとして。
こうした過程の重要性が見えれば、例えば、TOEICの点数がいくらだとあるひとつの特定のものさしの数値で学習結果を判断することがいかに的はずれなものであるかがわかるのですが、さりとて、世の中がそうした数値だけで判断されるシステムで成り立っている以上、ものさしで測れる結果を生み出せば生み出すほど、自分が選ぶ道の選択肢と自由が広がることも確かです。
表に出るもの出ないもの、いずれも大事です。見えないものにも重要な価値があることを春の日差しが教えてくれます。