活力

投稿日:2012年10月28日

数日ぶりの投稿です。

数日ではあっても、ずいぶん長い間離れていたように感じます。

終盤に入り、生徒たちの間に、これまでと少し違うものが見えます。それが何であるのか考えてみました。活力の変化なのでしょうか。

活力は、単に元気がいいという意味ではありません。活かすべきものが活かされているか、適材適所で良い働きぶりを見せているか、成果を生み出しているか、応用が効いているか、エネルギーの分配が上手にできていて燃え尽きてしまわないか、余裕を持っているかなど、いろいろな要素を含みます。

私たちは、その活力をどこから得て、どのように使っているのでしょう?

ある生徒たちは、聞いたことを言葉に出し、みんなの反応を得ることで新しい情報として理解していきます。言葉に出して表現している過程で決断をしていきます。周りの人々のしていることに関心を持ち、周囲に起こっていることに参加することで自分の満足を見たし、活力を与えると同時に自分の中にも活力を取り込んできます。このエネルギーの動きをスイスの精神科医カールユングは外向的と名付けています。

通常外向的という言葉は、社交的、シャイではない、人付き合いが良いなどと理解されていますが、それは、社会の中で使っているうちに起こった誤解であって、もともとの意味は、関心が自分の周囲に向いているか、エネルギーも外との交流によってわいてくるということです。

別の生徒たちは、聞いたことを深く自分の中に落とし、消化し、言葉として出すまでには時間がかかります。用意のないところで質問をされると答えがすぐに戻ってこないこともあります。でも、きちんとした目的のために時間の余裕を与えられると準備万端、深いところまで落とし込んだ回答を用意してきます。静かな時間を好み、じっくりと考え、納得するまで追求します。ユングの言葉で言えば、これが内向的なエネルギーです。

通常内向的という言葉は、シャイ、人付き合いがへた、話しべたといった否定的な意味を入れて使われていますが、これは、まったく間違いで、元々の意味は、活力が内側に向けて使われ、自分の中の想念から活力を得てくることです。

私たち誰もが、この両方のエネルギーを上手に使い分け、バランスを取りながら生活しています。しかしながら、自然に好むエネルギーの向きがあるので、周りの人々から見ると、活力を外に向けて出している人と、その活力を感じられない人というふうに見えてしまいがちです。

外向的なエネルギーの使用だけに頼ると、落とし込んでいくものがないので、中身が薄くなり、作り出すものが表面的なものだけになってしまうかもしれません。また、人との交流に忙しく、落ち着いて学習する時間が見いだせなくなります。しかしながら、活力が外に向けられるので、周りの人々に与えるエネルギーの量も影響も大きなものになります。世の中は、一般的にこのエネルギーを歓迎します。

内向的なエネルギーの使用だけに頼ると、想像や考えや新しいアイディアや様々な想いに頭も心も忙しく動いていて、誰にも邪魔されない豊かな世界に留まるので、周囲にいる人々には、何もしていないように見えるし、時にはぼんやりしているようにも見えます。しかしながら、独りになって静かな時間があると、内容の濃いとてもいいものを作り出します。外からみたら活力がまったく無さそうに見える人の頭の中はとても忙しく動いているのです

この両方の活力を上手に使うことが決定的に大事であると同時に、周囲の人々も、表向きの活力だけで判断してしまうことはとても危険だということを理解する必要があります。

教室内で今見え始めている変化は、帰国が近づくにつれ、これまでの生活に想いが行ったり、帰国後の生活に期待や不安を馳せたりで、最後の仕上げとなる一番大事な「今」にエネルギーの配分が不足になりがちであるということなのかと思います。この転移が英語を教えてみえる先生がたには、寂しいだけでなく、最大限の成果に結びつかないという無念さにもつながるのでしょう。これが、ケアンズの後遺症でもあり、帰国に向けた生徒なりの心の準備なのかもしれません。

でも、最後の最後まで、ここでしかできないことを思い切り体験していって欲しいですね。成果を出すためには、活力を内と外と両方に向けて使うことが大事です。

 

 

 

 

 

 

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