待ち時間

投稿日:2012年11月10日

昨日の続きの前にひとつ。

今日は、南オーストラリア大学のProf. Bishopという教授の「待つ時間は自分を活かすため」という話を聞く機会がありました。われわれの人生の毎日の生活の中には、「待つ」という時間がどれだけあるでしょう。電車を待つ、ご飯が炊けるのを待つ、誰かとの待ち合わせの時間を待つ、何か特別なことが起こるのを待つ、夢が叶うのを待つ・・・・ 色々な種類の「待つ」があります。

映画にも、「待つ」シーンやその結果の出会いの感動的なものがたくさんあります。童話や寓話にも、待つ場面がたくさん出てきます。教授があげた例には、難民が何年も変化を待つというものもあれば、旅の到着を待つというものもありました。私たちが、時間というものの観念があるがゆえに、待つという観念も出てきます。では、その時間をどう使うか、ということを考えるきっかけの話しでした。

今、生徒たちは、いろいろな瞬間を待つ状態にあります。1年の留学が終わる瞬間。ホストやお友達や先生たちにさようならをする瞬間。卒業式。日本への飛行機に乗る瞬間。帰国して日本の家族との再会の瞬間。それが起こる時間をコントロールすることはできません。でも、どう捉えるかを自分の中で、調整することはできます。

「待つ」ことを受身に捉えたら、待つことは辛く、退屈で、無駄なもので、自分に強制されたものになります。でも、待つことを、自分が次のことに向かうための準備の時間、立ち止まって考えるための時間、別なことをするための時間、回りにもっと注意を払うための時間、内省するための時間、自分に冷静さを取り戻すための時間、といったように、その時間の中身を自分の恩恵のために使う意識を持てば、人生におけるいろいろな待ち時間は、とても有効な時間であり、なおかつ、生産的な時間となります。

帰国が1ヶ月以内の射程距離に入った今、何が自分ができるか、何をすべきか、どうしたら最大限有効に使えるか、そのコントロールを自分の手中に収めておいたら、将来、ずっとそれが可能になるということです。

受身で待つ時間か、有効に使う時間かで、長い人生の時間は大きく変わってきます。

中国語の「需」は、「待つ=滋養」という意味なのだということ。待つ時間の意味がとても違ってきます。

生徒たちに次の4週間をどう過ごすかについて、いままでとは違う、別の言葉を使って説明できる方法を得る機会となりました。

 

 

 

 

 

 

 

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