600年の伝統を解き放す
投稿日:2013年2月12日
ローマ法王が今月いっぱいで退位することになりました。
ローマ法王は、一度法皇になったら終身その地位にあるものだと思っていたのですが、ベネディクト16世が辞意を発表したことで、そうではないことを知りました。退位の前例は、なんと600年前とのこと。キリスト教、そして、バチカンの方式が良くも悪くも600年も変わらず続いているということに改めて感慨を覚えます。
ドイツ人のベネディクト16世が選出された時も、イタリア人以外の人が法皇になるのは300年ぶりのことで新しい時代が来たと騒がれました。バチカンの世界には、徹底した支配と統制があることが覗われます。
法皇の退位の理由は、健康上の理由のほかに、たくさんの憶測が取り沙汰されています。ひとつの大きな問題は、カトリック教会の中で過去ずっと繰り返されてきた聖職者による子どもたち(多くが男の子)への性的虐待が、現行の法皇になってから大きく報道されるようになったことです。長い間、性的な虐待を受けた人々は泣き寝入りすることが当たり前のことだったのですが、インターネットの発達や情報伝達方法の改善により、被害者が実態を公表することが徐々に多くなり、その流れの中で、教会内でいたずらされた人々が次から次へと名乗り出るようになりました。アメリカでも、オーストラリアでも、他の国々でも。
ベネディクト16世は、数年前にシドニーで「世界の若者たち」の会を開催したことがあります。その際には、カトリックを代表して被害者の痛みに謝罪したいという演説をしました。でも、実際には、政府や警察をはじめどんな権力も教会内の調査に踏み切ることはできないままでした。でも、名乗り出る被害者の数がどんどんと増え、ついに、オーストラリアでは本格的な調査が実施されることになりました。「懺悔」で出てくることは公表できない、と長い間抵抗していた教会も、社会的な圧力に耐え切れなくなり、調査に協力すると宣言したのは、つい数か月前のことです。
辞意表明の裏には、他にもバチカン内での闘争や、非常に信頼していた部下に裏切られたり、時代の変化に合わないキリスト教の教えに対する世界中での批判や、信者数の減少など、いろいろなことに学者肌の法皇は疲れ切ってしまったのだろう、というような理由が憶測としてあげられています。
こうした中でひとつ思うことは、人々は、秩序を重んじ、内容の是非はあっても、ひとつの秩序に従うことを求めるものなのだということと、その秩序が確実に崩れつつある、ということです。世界の人口の30%以上を占めるキリスト教という大きな宗教が、600年も同じ伝統を保つことができたということは、それを望む人々がいなければできないことです。その伝統にパワーを与えてきたのは、それを信じる人々です。
そして、今、どういう理由であれ、法皇は600年の伝統にストップをかけました。これから4月の聖週間にかけて、バチカンおよび世界のキリスト教の中で力を持つ人々は、誰が次期法皇になるのか、誰を法皇にするのか、ありとあらゆる見えない権力闘争を繰り広げていくのでしょう。法皇がどういう理由で退位するにせよ、その状況を起こすに至った原因は、世界全体の社会の動きでしょう。その動きは、インターネットによって加速されたと私は思います。
世界の秩序といえばいいのか、権力構成といえばいいのか、社会のあり方は、あらゆるところで崩壊し始め、崩壊とはいかなくても、これまでのものとは確実に形を変えてきています。
今日、12年生の生徒たちと将来のことについてディスカッションしました。みな、未来にどのような選択が可能であり、自分がどのような選択をしていくのか真剣に考えている若者たちです。一昔前までのように、ひとつの道を選び、それをキャリアとし、40代、50代になった時の自分が見えるような時代ではなくなっています。終わったと見るべきでしょう。官僚制ですらも
わずか5年前、iPodやiPadのように手の平で無限大の情報を操ることができる時代が来ると具体的に想像できた人がいるでしょうか? いたとすれば、Steve Jobs氏とか孫正義氏くらいのものでしょう。インターネット上の情報から、「アラブの春」のような動きが起こることを誰が予想できたでしょう?
これから5年先、10年先にどんな世界が待っているかなど、誰にもわからないような社会に私たちは突入しています。日本だけでしょう、そこで時間が止まっているかのように秩序を保っているいるのは。世界がこれまで以上に凄まじい勢いで変わりつつある中で、将来にどう備えればいいのか・・・ それがディスカッションのテーマでした。
ひとつだけ確実にわかっていることは、自分自身をしっかりと持っているということです。道具がどのように発達し変化しても、それを使う自分がどのような志・資質・信念・価値観・望む生き様を持っているかで、道具を自分のために、社会のために上手に使うことができましょう。道具に使われる人間ではなく、道具を使いこなす人間になることが大事です。
今までもそれは唱えられてきています。これからは、それがさらに顕著となってきます。若者がたちがその意識を持っていることが大事です。