何が違う?

投稿日:2013年3月10日

叱って育てる文化と誉めて育てる文化。

どちらがより効果的なのでしょうか?

教えて覚えさせるのと、生徒の自発性に任せるのと、一体どちらの方法がより効果をもたらすのでしょうか?

それは、教師の力量や洞察力にもより、生徒の年齢や能力にもよるでしょうから、一概に、どちらがより効果的ということは言えないのかもしれません。高校生の年齢であれば、その両方を適宜に使い分けることが必要なのだろうと思います。

しかしながら、誉めるということには、絶大な効果があります。

なんでもかんでも誉めればいいというものではありませんが、でも、できたこと、達成したことに対して誉めることはとても大事です。そのレベルがまだ低いものであっても、その生徒にとっての達成であれば、誉められたことで勢いが付きます。そして、もっとしたい、という気持ちが湧いてきます。

 自発性を促し、生き生きとした学習生活を送れるようにするためには、誉めること、生徒の自主性に任せること、生徒の思うようにやらせてみることは、とても大事です。

昨日の記事の内容のように、生徒が気付いてこそ、生徒の気持ちの中で変化が起き、次への進歩があります。成績に反映するしないということではなく、生徒が、こういう方法で学習したら、自分がわかる、理解できる、記憶の応用ができる、ということを自分で感じることが何よりも大切なことです。何よりも、自分が学んでいることを自覚できること、それによって、自分に生き甲斐を感じることができるれば、放っておいても勉強します。

教師の仕事は、その気付きができるだけ起こるような環境を整え、意識に誘いをかけることなのでしょう。

間違ったことをしたときも同じです。叱って効果が出る場合もありましょう。でも、ふて腐れてしまうかもしれません。そうしたら、聞く耳を持たなくなります。叱る意味はなくなります。

叱るよりも、それがなぜ間違いなのか、その選択をしたことが後にどう続いていくかということに気付かせれば、そこで学びが起こります。これは、私が生徒に教えてもらったことです。

もうそろそろ10年になるでしょうか。ある時に、とんでもないルール違反をした生徒がいました。その生徒には、即、罰則が下されました。先生たちの中に、その罰則をくだすことに迷いはありませんでした。白黒、明白なことだったからです。少なくとも、先生たちの目には。もう帰国が間近になっていた頃です。その生徒が、帰国の前日に、「話を聞いていただけますか」と来ました。(この生徒は、きれいな日本語を使う生徒でした)

「罰を受けたことに不平を唱えているのではありません。でも、罰を下す前に、なぜ、それがダメなのかという説明があるほうが生徒には罰よりもずっと効き目があります。なぜなら、僕たちは、どうやったら上手に生きられるかということをまだ学んでいる年齢なので、僕たちの行動が、どういう波紋を起こすかと言う図を示して教えてもらえることが、僕たちには必要なのです。規則だからと罰を与えられても、何も学ぶことはありません。」

私は、毎日、生徒たちからいろいろなことを教えてもらっていますが、この教えは、その後の生徒たちとの接触の原則となるものとなりました。それほどに、衝撃的なできごとでした。

最初の質問に答えましょう。

誉めること、そして、生徒との自発性・自主性に任せること、 それが、その生徒を活かす元となります。20年の経験の中で現実に機能し、成果を見ることができることから得ている私の答えです。

しかしながら、そこには、生徒がしっかりとした道徳観・倫理観を持ち、毎日の体験をフルに楽しみ、そこからできるだけのものを学び、自分の志に向かって精一杯自分を投入する元気があってのことですが、それを支援する家庭環境・学校環境があることがその土台となります。

後は、彼らの情熱に火が付くのを待てばいいのです。それが何年か後であっても、必ず、「自分を生きる」姿勢を持った青年として社会に立っていることでしょう。

 

 

 

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